いい人が自分につくる限界2008年05月13日 06時07分52秒

昨日、会社帰りに友人とコーヒー飲みながら話していたなかで、あるスポーツの有望高校生が親に楽をさせたいからとそのスポーツをやめてほかの分野に飛び込んだという話になりました。

最初は「泣けるねぇ~」という話だったんですが、でもさ、親はもう少しの間大変かもしれないけど、自分のやりたいことを続けてもいいんじゃないのというと、彼もそうだそうだと言って妙にうなずき合うことになりました。

もちろんその家族ごとに思いは様々だから、その有望高校生の場合にも当てはまるのかどうかはわからないし、あてはめようとするのはお節介なんだけど。

わがままと意志の主張の境界線って言うのかな。
ある程度の年齢になって、何らかの意志が芽生えて、それを実現する可能性が見えたら、多少の迷惑覚悟で押し通すという選択肢があってもいいと思うんですよ。
もちろん選択肢だから、それをやるかどうかじっくり考える必要はあるんだけど。

いい人が自分でつくってしまう限界だと思うんですよ。
いい人って相手が喜ぶようなことをしようとか、人に迷惑をかけないようにとか優先しがちで、どうしても自分の行動基準がどうしても相手に左右されやすくなる。
相手の顔色を見ているうちに、大胆なことができなくなります。
自分がとれる行動の限界がそのあたりに勝手にできてしまいます。
そして、あの人のためにやったことだからこれで良かったのだと自分を納得させることになります。

僕自身が自分にそんな面があるなってある時思ったんです。
いい人じゃないんだけどね。
でも昔から人の顔色伺う癖がある。
人の顔色伺っていると、やるやらないの判断が相手の顔色になるから、相手の顔色悪くなったらそれ以上できない。
さらに、顔色悪くなりそうだなって思ったらやらない。
そうするとどうしても自分の行動がある枠を超えられないって言うか、びっくりするようなことはできない。
ひとつだけ、高校卒業して北海道の大学に来るって決めたときだけは突き進んだかな。
親は大反対したけどそれだけは譲れなかったから。
僕自身が根底からいい人じゃないからかもね。

ただ「自分のことは自分で決める」ってのともちょっと違うんですよね。
潔くていいように思えるけど。
その時点では迷惑をかけるかもしれないけど、長い目で見たらお互いに幸せになるという信念をもてるかどうかって言うのかな。
ちょっと大げさ?

内田樹氏は「下流志向」という本の中で、自己決定することがいいことだという世の中の流れはおかしいと指摘しているんだけど、そこまで言い切るほどでもないかなとも思う。

ま、人によって置かれている立場とか、育った環境とかいろいろあるから一概に言えることでもないんですけどね。
いい人になろうとしている自分に気づいたときに、ちょっと考えてみてもいいことかもしれません。

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