尊敬するという言葉の自分なりの使い方2008年05月02日 06時05分32秒

尊敬するという言い方を意識して遠ざけてきたんですよ。
簡単には使わない。
「すごいなぁ、尊敬するなぁ~」という具合にふつうの会話では間違っても使わない。
何かもっと本当に気持ちが動かされたとき、自分の生き方、考え方が変わるような衝撃を受けたときに使うものとしてとっておいています。

だから例えば「尊敬する人は誰ですか?」「両親です」という言い方もしない。
両親を尊敬しているかどうかは実はよくわからなくて、両親って何かまた違う存在というか、少なくとも僕にとっては「尊敬」という言葉が当てはまる対象ではなくて。

いや別にみんなそうすべきだということではなくて、僕がそうしてきたというだけです。
僕が尊敬という言葉にそういう意味づけをしてきただけなので。
なのでリスペクトという言葉も嫌い。
そんな簡単に尊敬かよって思ってしまったりして。

僕が尊敬するという言葉を使う対象は思い浮かぶ人で数人。
ある時衝撃を受けて、その時点で自分の届かないところに漠然とした目標のようなものが突然現れたようなそんな存在。
こんな人になりたいと無意識に思って、勝手にその向きで自分が進み出しているということがごくごく稀にあって、その人もどんどん前に進んでさらに手が届かなくなりそうになる。

だから僕の希望としては、その尊敬する人も走り続けていてほしい。
て言うか、走り続けるような人を知らないうちに選んでいるような気もするのだけど。

ところで誰?

ここまで書くと明かさねばならない流れだなぁ。
引っ込みつかないと自分で納得して、ひとり明かすと、

辻仁成

愚痴は問題解決の最初のステップだけのこと2008年05月04日 06時04分50秒

いろんなことの問題解決が必要になったとき、基本的なステップに分けて考えるとわかりやすくなります。


第一段階:きっかけの何かがある
何かトラブルが起こったり、これではダメだって不満を感じたり、つまりは「問題発生」で、きっかけがなかったら何も始まりません。

第二段階:じゃあどうなればいいのか?
理想の姿を考えます。理想でなくても、現実的に手が届くところでもいいです。
大事なのはあるべき姿が見えるかです。「目標設定」とでも言いますかね。

第三段階:どうやってやろうか?
具体策を考えます。あるべき姿は見えたけど、どうやっていいのかわからないというのはこの段階での手詰まりです。
アイデアが求められるので、考える立場の人は頭の中にいろんな引き出しを持っておく必要があります。
「戦略・戦術立て」かな。

第四段階:やる
「実施」です。立てた具体策に沿って実際にやってみます。やってみたらうまくいかないこともあります。
構想が完璧だったとしても、実際には人が動き、自然が動き、世の中が動くので、やっぱり動き出したらその瞬間ごとの対処が必要になります。
構想通り進まないのが当たり前くらいに考えておいたほうが良くて、しなやかな対応ができるのがいいですね。


僕の思う基本パターンはこんな感じですが、場面によっても変わります。

「溺れている人を見つけて、飛び込んで助けた」
第一段階の問題発生からいきなり第四段階の「実施」に飛んでいます。
ま、頭の中で一瞬にして助けよう!という目標設定と、俺が飛び込もう!という戦略を考えてるんでしょうけど。

「新入社員はとにかくこれをやれ」
新入社員や卒論学生なんかは、いきなり第四段階から始まることもあります。
とにかくこれをやっておけ!と。
やる方法も示されて、何だかわけわからないままにやることだけはやる。
詰まったときにやり方を考えて(第三段階)、やった結果が良かったのかどうかを照らし合わせるのにもともとの目標を確かめて(第二段階)、この仕事(研究)はそもそも何の目的で始まったんだろうと我に返ってもとを調べ出す(第一段階)というように、逆にさかのぼっていく。
さかのぼっていけばいいほうで「やれと言われたことをやりました」で終わってしまうと何にも身に付かない。

また違うパターンとして「仕事の愚痴をだらだら言う」というのは第一段階のみしかないことで、じゃあどうなればいいのかとか、そのために自分は何をするのか、何をしたのかというのがない状態だということです。
特に、その人自身が「どうなればいいのか」も「どうすれば良くなるのか」というイメージを持っていなければ、聞くのはただつらいだけです。

「行動力がある」という言い方がありますが、この第四段階に移れない場合が多いんでしょうね。
もしくは第三段階の道筋から立てられない。
第二段階の「あるべき姿」だけだとただの評論家になってしまうんですけどね。
評論も実施までのステップになっていればいいんですが、立派に評論することで終わってしまう場合もよくあって、身の回りでそんな話ばかり聞かされると「口先ばかりでなくて、お前が何かやれよ」と言いたくなります。


唐突にこんなことを書いてみましたが、技術士会のあるべき姿というのを考えているうちに、一度整理しておこうと思い立って書くことにしました。

ちなみに、こういう組み立て方は技術士試験の経験論文を書くのに役に立つんですよね。

編集作業でなく自分の頭を使って知恵を出す2008年05月05日 05時52分02秒

昨日、問題解決の4つのステップについて書きました。

 第一段階:問題発生(きっかけ)
 第二段階:目標設定(どうなればいいのか)
 第三段階:戦略・戦術立て(どうやってやろうか)
 第四段階:実施(実際にやる)

でした。
例えば偉い先生が学会誌の巻頭言に書くようなお話では、第二段階の「どうなればいいのか」というのを示してくれればいいのですが、僕ら現場技術者はそれだけでは仕事は進まなくて、次のステップ、どうやってやろうかということを考えて示していくことになります。

評論だけで終わるのではなく、自分達の提案した「どうやってやるか」の方法で人が動き、モノが動き、現場が動く。
失敗すれば自分達が提示したやり方がまずかったという批判が返ってくることだってあります。
「方向性はよかったけど、どうしてこうなっちゃったの?」
というのは、この第三段階での戦略ミスもしくは戦術のミスですね。

ここで「どうやってやろうか」を考えるとき、人によってやり方は大きく2つに分かれます。
 ・過去の例を探してそれにならう
 ・自分の経験と知識でアイデアをひねり出す
この2つです。

たぶんこの2つをうまくバランスさせて提案ごとをつくる場合が多いと思います。
つまり、事例を探して、その事例を参考にしながら自分の提案を作り上げる。

ここまではちょっと教科書的な書き方をしてきましたが、ここからは僕自身の経験を書きます。

以前に勤めていた会社を辞めて札幌に戻ってきた頃、最初はあまり仕事を受け持っていなくてヒマだったので、大学とか寒地土木研究所とか、知り合いのいるところへぶらぶら出かけていって「札幌に戻ってきました」みたいなことを言いながらお喋りして歩いていました。

そしてある時、ふと思ったのです。
この人達は自分達の頭で新しいことを考えて提案する仕事をしている。
自分はと言うと、何かを提案するとき、ほかの事例を探し、基準になる数字が書いてあるマニュアルを探し、根拠になりそうな論文を探す。
つまり、全てが人の仕事を拠り所にしていて、それを組み合わせていかにも自分達のアイデアだというように提案してきた。

編集作業なんです。
オリジナルではなく、他人の考え、他人の成果をうまくつないでバランスさせて成果にする。
頭を使って仕事しているように自分では思っていたけど、頭を使って知恵を絞り出すという過程は非常に稀で、事例・根拠を探す作業に労力を費やし、相手が納得しそうな組み合わせに頭を使う。
つまりはただの編集作業。

編集でもいい立場の仕事もあると思う。
だけど建設コンサルタントがそれではダメじゃないかということに、ようやく気づいた。
河川なり道路なり、自分達の提示した方法で世の中にモノができる。
それをあり合わせの編集作業で、根拠だけがバッチリで文句の言われにくい計画・設計ができて、それにあわせてモノができていく。

言い分はあります。
計画や設計の場面では、必ず役所から
「根拠は何?」
「どこに書いてあるの?」
「事例はある?」
と聞かれるので、根拠が不明確で事例もないようなアイデアは通りにくいし、その労力を払うくらいなら、最初から根拠明確、事例ありの方法を提案した方がいい。
役所もこちらもすんなりOKという設計のできあがり。

それが必ずしもダメだと言ってるのではありません。
自分自身、問題だなと思ったのは、そんな編集作業だけなのに頭を使っている気になっていて、実は自分の頭を振り絞って自分のアイデアをひねり出すというような頭の使い方をしなくなっていることに気づかなかったことが情けなかったということです。

今の会社に来たすぐの頃の、あのヒマだった約2カ月。
僕はこのときに劇的に変わった実感があります。

自分の頭を使う仕事のやり方。
まだまだ試行錯誤なんですが、この方向だけはぶれないで行きたいと思っています。

暗い顔をつくって仕事をするな2008年05月06日 05時48分19秒

「上司の哲学」 江口克彦 PHP研究所
「部下の哲学」 江口克彦 PHP研究所
「人を導く」  江口克彦 PHP研究所

実は数年前、いわゆるビジネス書をまとめて読んでいた頃がありました。
僕は本と言えば小説か雑誌くらいしか読んだことなかったのですが、電車でスーツ着たサラリーマンがその類の本を読んでいるのを見て、どんなことが書いてあるんだろうかとふと気になったのがきっかけで、本屋に行っていくつか買って読んでみました。

何となく毛嫌いしていたんですよね、ビジネス書って。
仕事のやり方を上から目線で指南されるような、たぶんそんな本ばかりなんだろうなと想像していたので。
確かにそういう偉そうなだけの指南書もありましたけどね。
そんなのは途中で放り出しました。

この江口氏の本は納得しながら読んだところがとても多かった記憶があります。
書いてあることひとつひとつは覚えていないんですが、仕事するときの姿勢のあるべき姿が読んでいるうちにすっと入ってくるような、拒絶感なく受け入れられるような感覚で読んでいました。
ちなみにこの江口氏は松下幸之助氏から直接指示・指導を受けながら仕事をされていたそうで、両氏のやりとりなんかもふんだんに書かれています。

3冊も読んで、でも今となっては何が書かれていたか具体はほとんど覚えていないんですが、ひとつだけ妙に記憶に残った話があります。

「暗い顔をつくって仕事をするな」

いつも難しい顔をして、まわりから気を遣われるように振る舞っていたとしたら、それは思い上がりでしかないと。
まわりから見える印象をつくるんだったら、難しい顔で孤高さを装うのではなくて、明るく愛嬌をもって接しやすい人になりきる努力をせよ、みたいなことが書かれていました。
(記憶で書いたので言い方は正確ではないですが)

人間ですから、感情が表れるのは当然で、真剣に仕事していればその起伏があって当たり前だと思います。
だけど、そこで頑張って愛嬌を持てるか。
愛嬌の努力が試されていると言っていい。

と言う僕自身も愛嬌をなくした時期はあります。
以前いた職場で、とにかく忙しくて超深夜生活をしていた頃、直接の上司にはホント無愛想な表情をしていました。
拒絶の表現ですね。
上司から声かけられたときに愛嬌持って答えたら、また何か頼まれる。
無愛想にして頼まれにくい雰囲気をつくりだす。
上司は嫌だったでしょうね、拒絶感のオーラありありで、それでも僕に頼まざるを得ないことはどんどんでてくるので、しょうがなく声をかける。
僕も頑張って笑顔で受け入れれば良かったんでしょうけど、やっぱりもうそんな余裕はなかったなぁ。

あとは札幌に戻ってきてから、大学に再び社会人ドクター課程として通い出した頃かな。
自分がやるべき勉強が全く追いつかなくて、テレビをやめ、読書もやめて、友人の誘いも断った。
誘いを断るというのはつまり「飲み会あるから来ませんか」と誘われたときに「あ、行く行く」と簡単に答えず、「ゴメン、俺行かない」と返事するということです。
これが最初は簡単には言えなかった。
誘ってくれる親切を気にして「ちょっと考えるわ」とお茶を濁して保留にしておいて、事情があるという雰囲気をつくる。
でもそのうち、すっと「行かない」って言えるようになるんですね。
で、色んなことを断っているうちに開き直ってくる。
愛嬌って頑張って捨てられるんですよね(変な言い方ですが)。

でもこれは仕事で追いつめられた無愛想とはまた違うんです。
主体的な無愛想、積極的な無愛想とでもいうのか(これも変な言葉だ)。
自分でやりたいことがあって、その時間を確保するために、優先順位の低いものを捨てていく。
テレビも読書も、そして愛嬌も。

ちょっと話がそれてしまった。

それでもやっぱり仕事で人と接するときは、多少の努力をして愛嬌は持っておいたほうがいいと思います。
ひとりで作業に没頭しているときはいいですけどね。
ちょっとした言葉を交わすだけの時でも、愛嬌に気を配る。
相手に必要以上に気を遣わせないようにするというのは、仕事での基本姿勢なんでしょうね。

サケの稚魚放流に参加して・・・日常化について2008年05月07日 05時51分24秒

この連休はどこにも行かなかったなぁ。
ほとんどうちのまわりでぶらぶら。
唯一、札幌・真駒内にあるさけ科学館にサケの稚魚放流に行ったくらいでしょうか。
でもうちではこれは毎年必ず行く行事です。

コップに入った数匹のサケの稚魚を受け取って、すぐ近くの川にジャーと流す。
ただそれだけなんですけどね。
だけどそれだけじゃないような気もしています。

繰り返すことによって日常化する。
日常化することで無意識に何かを感じるようになる。
この無意識というのが大切で、話を聞いて教えてもらって何かを知るのではなく、普通にやっていることを通して知らないうちに何かが身に付く。

サケの放流はイベントですが、家庭単位ではイベントを特別なものからごく普通の習慣ごとにおろしてなじませる。

日常化することで特別なものという意識が少しずつ取り払われる。
「育った環境が違うから性格が違うのは当たり前」という言い方をしますが、この育った環境というのは、日常化された習慣のことですね。
それぞれの家庭で、すごく細かいことから大きなことまで、日常化されていることは違いすぎるほど違うはずです。
その日常化の習慣づくりが子育てのような気がしてます。

特に自然環境に対する気持ちは、子供は授業で先生から教えてもらっても教科書に書いてあるひとつの考え方を知るだけで、自分の心になじむというところまで届かないのではないか。
さらに、大学生は講義で教えてもらっても、大人は講演や通達で伝えられても、やっぱり頭で知るというだけで本気で思うというところまでいかないのではないか。
そうすると、お金や便利さとか快適さのようにその瞬間で必要性の高いことが頭の中で無意識に優先されて、環境が二の次になる。
当然ですよね。
頭の中にしっかりと根ざしていなかったら、自分の頭の中で負けてしまう。

「環境」を特別扱いするのはもうやめたいなぁ。
大人も子供も。

そのために大事なのが「日常化」だと思っています。