「けしからん」ことに反応しやすい正義感2008年03月17日 05時18分28秒

もう数ヶ月前のことですが、ある勉強会に参加してきました。

その勉強会は、若い研究者が講師に招かれて自分の研究内容やそれに関係する文献を紹介するようなもので、聞きに来られている人たちのほとんどは、自然や科学に関心のある一般市民の方達でした。
参加者は15~20名くらいだったでしょうかね。

僕はその会を主宰されている方から誘われて、いそいそと出かけていきました。

その日の講師役は二人。
最初は大学院の修士の学生さん。
次は30歳前後くらいでしょうか、北極で気象の観測をされている研究者の方でした。

北極の気象観測が専門の方のようでした。
太陽光のエネルギーが地表面に届いたとき、雪面が吸収するエネルギーがいくらで、どの程度が反射するというようなことを観測で明らかにしようと取り組まれているようでした。
参加者の方々も熱心に話を聞いていました。

僕は研究紹介そのものの関心より、その会にどんな人が集まっていて、そこでどんなことが議論されるのかということのほうが関心あったので、後ろのほうの席に座って雰囲気をずっと眺めていました。
あ、研究内容も面白かったですけどね。

話は自然の熱放射の話題から、シベリアでは人間が敷設したパイプラインが熱を吸収するからその周りだけ雪の解け方が変わるという話や、北極では観測のための砕氷船が通るとそこだけ黒い道筋ができて本来の光の吸収度合いが変わってしまうとかいう内容になりました。

そうすると、参加者の方達はそこで反応されるんですね。
人間のやることがいかに環境には悪いことかという話に参加者は聞き入り、質問もそこに集中します。

最後は研究者が氷の上に残していったゴミがまた光を吸収して熱をもってしまう、そんな研究者が残していくゴミがいかに環境に影響を与えるかを示していきたいと、その若い研究者は言われていました。
参加者の方達も満足ですね。
若い研究者が立派な考え方を持っているなと実感できて。


たぶん学会のような研究者だけの集まりであれば、どんな観測をやってどんなデータが得られて、それで何がわかったのかというもっと専門的な話にどんどん掘り下がっていくところでしょう。
専門家が一般市民に説明するときには、そんな難しい話はできないし、難しい話を難しくないように話するのは相当な技量が必要になるので、結果的に聴いている人たちがいい反応をする話題に傾いていってしまうのはやむを得ないかなとも思います。


人の「けしからん」話を聞くのは実は面白いんですね。
人ごとならなおさら面白いです。
そして特に問題意識の高い人、正義感の強い人はそんな「けしからん」話に反応しやすい。

だけど「けしからん」話で引っかかってしまうと、往々にして議論がそこで止まって発展しなくなります。
けしからんことは、それを自分が変えようとしたら膨大なエネルギーが必要なことが多くて、それでも変えようのないことが世の中には山ほどあります。
だから諦めるのかと叱られそうな気もしますが、それよりは、そんなけしからん話もあるけど、どんな新しいことがわかって、さらにどんなアイデアをもって次に進んでいくかということを考えるほうがよっぽど面白いです。

「けしからん」ことに目を奪われると、どうしても視野が狭くなるんじゃないかなと思います。
もぐらたたきに熱中しすぎると、まわりが見えなくなります。


考えてみれば日常の仕事にも当てはまります。
些末なチェックに目を奪われすぎると、そもそもの方向性がずれてきていても気づかなくなります。
似ていますね。
間違いをなくそうという意識が強すぎると、些細な誤字脱字チェックばかりに目が向いて、全体としては変な資料ができてしまう。

面白い仕事がしたいですからね。
人のやる「けしからん」ことに気を奪われるのではなく、自分が面白いと感じて、発展性のあることのほうが楽しい仕事ができると思います。