若手技術士が大学へ行こう! という企画 その22008年02月11日 06時40分50秒

先月はじめにこのブログで、技術士会が大学に行って技術者としての仕事の楽しさを大学生に伝えようという企画を提案していることを書きました。

年度末に向かうこの時期は技術士会のメンバーもみんな本業の仕事が忙しいので、いまはメールや掲示板で情報交換しているのみで話はほとんど進んでいませんが、春になって余裕ができた頃にあわてずすぐに動き出せるように、プランだけは少しずつ練っておこうとしているところです。

そもそもこの企画の目的は大きくは二つあります。
・技術者という働き方があることを若い人に伝えて、技術者になりたいと思う人を増やす(主に高校生を想定)
・理系で卒業しようとしている人に技術者の仕事の面白みを伝えてモチベーションを高める(主に大学生を想定)

背景として、最近、大学での理系離れがはなはだしいようで、理系を目指す人が減ると、卒業して技術者になる人も減ることになり、これはすなわち将来の技術者のレベルダウンにつながるとう懸念があります。

もっと小さな子どもの理科離れが指摘されるようになって久しく、理系離れもこの理科離れとつながっていそうなのですが、あながちそう言い切れないですね。

技術者という働き方が、僕らが想像する以上に若い人達に知られていないのかもしれない。
僕らの世代の技術者は、世の中の不況や自分の仕事の忙しさの割には仕事を楽しんでいて、技術者の仕事に誇りを持っている人が多い。
そんなことが世の中に知られていない。

そんな知られていない技術者という職種を若い人に伝えることで、将来の職業・進路の選択肢をひとつ加えてあげられるのではないか、というのがこの企画の動機です。

大学生のモチベーションを高めるというのは、理系の進路を定めている人に、さらにやる気を持って世の中に飛び込んできてもらって、次の世代の技術を背負ってもらいたい、そしてその動機付けの役割をいまの技術者が担おうというものです。

そこで技術士自身が大学や高校に行ってプレゼンテーションします。
日常の仕事の面白みをいかに伝えるかがポイントになります。

この企画を進めるなかで、さしあたりの課題が2点あります。
・内容の具体化(どんなスタイルでやるか)
・協力してもらえる大学、高校の発掘
実は後者の「場を見つける」というのが意外と苦戦するかもしれません。特に高校は年間カリキュラムが僕らの想像以上にガチガチ固まっているようなので。

ま、これからの企画なのでクリアしていく課題はもちろんたくさんあるでしょう。
これを技術士会のメンバーでひとつひとるクリアしていきながら、みんなで作り上げていきたいと思っています。

(技術士会メンバー向けに書いた文章に加筆して掲載しました)

相撲部屋の弟子の悪事は上司にならった部下の麻痺2008年02月13日 04時25分47秒

相撲部屋の元親方と弟子が逮捕されて「その時」の状況が少しずつ明らかになってきました。
何だかもうふつうの感覚では聞くに堪えないようないじめが大人の社会で堂々となされていたことにちょっとショックです。
ニュースを見ていられない。

だけどこの荷担した弟子達はもとからそんな悪い人達だったのだろうかとふと思ったりします。

ふつうの人が例えば新しい会社に入ったら、まわりはみんな先輩達で、声もかけられないようなずっと上の偉い人もいる。
そして自分は仕事を全く知らない。
そんな状態から仕事をスタートするとき、目の前にあること、周りの人達がやっていることを無意識に飲み込んで、吸収して仕事を覚えようとしますね。
そして命令には絶対服従。

よっぽど自分をひいた立場において客観的に周りを見られる人は別ですが、ふつうは仕事を覚えるためにできるだけそこのやり方になじもうとします。

そして偉い立場の人がワンマン体制で仕事を仕切り、その周りの管理職くらいの人達が諫言できるような勇気を持っていなかったら、ますます専制君主状態となり、誰も何も言わなくなります。

相撲部屋の場合はそのいじめがひとりを死に追いやったほどの残酷さ、ひどさがあったと言えるかもしれませんが、ふつうの会社でもそんないじめでうつ病になって死人同然になっている人もいるようです。

現実として自分の弟子をいじめてその弟子が死んでしまったという兄弟子達に同情の余地はないはずですが、彼らはもっといい親方に出会っていれば、質の良い厳しい稽古に精進できて、自分を鍛えられて、そして弟弟子達に良い稽古をつけられたかもしれません。

親方の逮捕と兄弟子達の逮捕の意味がホントは全然違うんじゃないかなということ、兄弟子達もその師匠についてしまったついていない偶然で変ななりゆきに追い込まれてしまったのではないかという不幸さ、この2つをニュースを見ていて感じました。

専門家が専門知識を市民にわかりやすく伝える大切さ2008年02月14日 06時04分43秒

先日、ある魚の愛好家の団体の方からメールで問い合わせを頂きました。

その団体がある川でヤマメという魚を放流しているのだけど、その川に工場から温水が排水されている場所があり、どうもその上流では魚の生息状況が悪いことがわかったと。
それで役所に問い合わせたけれども、特に問題はないのではという回答をもらったのだけど、自分としては関係がありそうな気がするので、専門家としてわかることを教えてほしいという依頼でした。

工場の温水排水場所の上流側で魚が減少しているかもしれないということは、そのヤマメという魚は水温の影響をとても受けやすいことから考えると、因果関係がありそうと想像がつきます。
そして、それについて役所に調査の依頼をされたけれど、役所は特に問題はないと判断していて調査の予定もないと返事をしたようです。
ここで何となく役所に対して不信感を漠然と感じられたようです。

ただ僕はたとえ役所が正式な調査を行ったとしても因果関係を示すのは非常に難しいんじゃないかなと思いました。

役所が調査費を使って調査をしても、魚の分布データ、水温・水質データが揃うだけということになり、関係を断定するまでには至らないでしょう(推測なら言えますが)。
研究者が乗り出したとしても、それはもしかしたら同じかもしれない。

なぜなら、魚の生息状況は水温・水質だけでなく、水量、深みの有る無し、川底の石の大きさなど、ほかの様々な影響を受けるからです。
これらの要因より工場排水の影響が大きいということを調査で示せるかというと、それは難しいかもしれない。

さらに、調査するにも役所は金がかかる(役所は財政難)、工場の企業側も水温を低下させるための施設をつくるには金がかかる、そして現状では飲料水への影響など住民生活への悪影響がないとなれば、実際は両者とも動けないでしょう。
調査程度でも実際は金がかかりますので。

役所や企業は、おそらくある特定の団体からの要望では、費用を使っての調査や対策には動きづらいでしょう。
役所や企業を動かすには、団体だけからの要望というよりは、町内会など地域を巻き込んだ、地域全体からの要望というカタチに持って行くのがいいのではないかと思います。

私自身が現地を見ていないのでこの程度のことしか言えなかったのですが、こういう地域で活動されていて、問題意識を持たれている人には、僕はできるだけ協力したいと思っています。
(ちょっと優等生的できれい事に聞こえるかもしれませんが)

専門家として得た知識を仕事のなかだけで使うだけではもったいない。
専門知識って、ふつうの人は理解したくてもなかなかとっつきにくくて理解しづらいので、興味・関心を持っていても難しそうだと思ったらそこで諦めてしまうことが多いと思います。

特に僕は川のことを専門にしていて、川は一般の人にも身近で関心を持っている人も多い分野です。
そして河川改修なんかで役所と住民、市民団体がぶつかる場面もよくあります。
そんな時、住民や市民団体の方が、ちょっと勉強して身につけた部分的な知識で考えを主張し続けるような光景を目にすることがあります。
でもかじった知識だと主張の論拠が偏りがちになるので、やがて議論がかみあわなくなります。

問題意識を持って、自力で勉強されたのだと思いますので、それだけに知識が部分的で終わるのはもったいない。
そこに専門家のアドバイスがあれば主張の視点が広がるかもしれません。

そんな市民に向き合う役所にしても、市民が部分的な知識で主張をもって来られるより、きっちり身につけた知識をもとにした考えを持って来てくれたほうが、本質の議論をしやすくなって、解決の方向を探りやすくなります。
これはデメリットではなくメリットでしょう。

専門家が、身につけた専門知識を目の前の業務だけに使うのはやはりもったいない。
僕自身、ひとりの専門家として、専門知識を、それを求める一般の人達にも提供して、その人達の理解を深められるような役割もしていきたいと思います。

提案はひとりの反対でめげない2008年02月15日 04時47分15秒

最近、ふと思ったことです。
何かを提案するような場面が増えたせいかもしれません。

例えば友達と話していて、自分の言ったことに「えっ」という反応をされたときどう感じるか。
自分の考えが間違っているかもしれないって頭をよぎります。
だいぶ弱気なんですけどね。

会議で自分が何かを主張して、誰かがそれに反対してきたときどうするか。
その反対に反論したくなりますが、仮にその相手が自分よりだいぶ上の立場の人だったら、しゅんとなって黙って受け入れるかもしれません。
あくまで例ですけどね。

でも、そこで諦めてはいかんのだろうなと最近思うんですよ。

1対1のままだと、声が強い方が勝つし、弱気になったほうが負けます。
1対1の強さの関係で勝負が決まります。

だけど、いつまでも1対1とは限りません。
そこにもうひとり登場すると、体勢が逆転することがあります。
往々にしてあります。

極端に言うと、自分の周りに10人いたとして、自分の考えに賛成してくれる人が9人、反対の人が1人という状況だってあるわけで、最初の反対者がたまたま9分の1の人だったってこともあるわけです。
声が強い人が反対の考えをもったとき、だいたいまず反論の口火を切りますからね。
9分の1が最初に出てきやすい。

そして、そこで提案者がくじけたらどうなるか。
本当は9対1で圧倒的に支持されるはずのアイデアが、運悪く最初にあたった反対意見にくじけて、そこで闇に葬り去られることになるのでしょう。
これは非常にもったいない。

実は日常でもそんな場面がたくさんあるかもしれないなぁって思ったのです。
上司に一蹴されたアイデアが、実はその他大勢にとってはとても魅力のあることだったってこともあるでしょう。

提案する人は勇気がいります。
その勇気を振り絞って出した提案に反論されたらくじけそうです。

でもめげてはいけない。
弱気に簡単に折れてしまうこともない。
考えを練った自信のあるアイデアならば、ひとつの壁にぶつかっただけで走るのをやめるのではなく、もう少し頑張って、説明のしかたを変えるとか、時を改めて提案してみるとか、いろいろ試してみるのがいいのでしょう。

いつ9分の8の応援が湧いて出てくるかわかりませんから。

打ち合わせがチェックだけの場になるのはもったいない2008年02月18日 05時49分37秒

先日、川での市民活動をされている女性と会って話をする機会がありました。
行政の川の維持管理のことを聞くのが目的でした。

その方は子ども達を集めて自然観察会などをする市民団体をつくって活動されています。
それだけあって、さすが話題が豊富、しかもパワフルで、その雰囲気に圧倒されそうでした。

何と言ってもアイデアが豊か。
発展性のある考えがぽんぽん出てくる。
見たもの、聞いたものに対して、こうすればもっと良くなる、こんな風にやれば市民にも広がるとか、次に何をすればどう展開できるかという発想がどんどん湧いて出てくるという感じ。

役所の河川の維持管理の話になると、これまた、いまある制度をこんな風に変えてくれればもっと活用しやすくなるとか、住民の関心を川に向けるにはどうしたらいいとか、アイデアが出てくる、出てくる。
そして、そんなことをよく役所の担当の方に伝えるのだけど、なかなか反映されないし、新しい制度ができたと思って見たら全く市民感覚とずれた施策内容になっていたりと、いろんなことにもどかしい思いを持っているようでした。

こういう話を聞くと、やっぱり役所はダメだなとか、やる気がない、改革・改善する意欲がないと短絡して受け取ってしまいそうですが、簡単に結論づけないほうがいいかもしれません。

やる気がないから市民団体からの提案を受け入れられないのか。
改革・改善する意欲がないから、聞く耳を持てないのか。

やる気や意欲の問題ではないかもしれません。

人から何かを提案されたとき、その提案をうまく生かしてやり方を軌道修正していくという仕事のやり方ができるかどうか、実は人によって上手い下手があるんじゃないかなと思います。
誰もができるわけではない。
それは役所の人に限らず、どんな立場でどんな仕事をしていてもそうです。

日常の打ち合わせの場面なんかで考えると、依頼された側が何かを考えて資料をつくって持って行きます。
その資料を発注側に見せて説明しますが、発注側はその内容を吟味して、受け取るか、修正させる指示を出すか、いずれかのパターンの判断をするだけの場合が多いですね。
打ち合わせで「協議」したことになっているのだけれども、つまりは打ち合わせが「チェック」をするだけの場になっているのです。

仮に依頼された側が何らかの提案を持ってきたとしても、それを採用するかどうかの取捨選択をするだけのことが多い。
採用するかどうかの「判断」が発注側の役割と考えられているからだと思います。

もちろんそれでもいいのです。
アイデアを出すところをお金を出して相手に頼んでいるわけだから、考えさせたことが自分達の希望と合っているかどうかを判断すればいい。
そして希望と合っていなかったら、突き返してもう一度考えさせればいい。

だけど、ただ採用するかしないかだけの判断や、採用しないときに差し戻してまた考えさせるということだけをやっていると、提示されたアイデアを提案者と一緒にじっくり考えて、さらにいいものに変えていくという過程は挟まれないことになります。
発注者と受注者が、私は仕事を出す人であなたが考える人というように明確に分けて仕事をすると、役割分担としてはすっきりしますが、成果を一緒に練り上げるという手順がなくなる分だけ、成果に深みがなくなる可能性もでてきます。

もちろんプロとして受注者が完璧なものを納品せよという考え方もわかります。
そのほうが考えとしては正しいかもしれません。
でも実際はモノを必要としているのは発注している側で、切迫しているのは発注側です。
その発注側がどんなモノにしたいかという意図を明確にもち、提示されたモノを、受注者と一緒に知恵を絞りながら自分達が必要とする最終形に整えていくという工程を入れるか入れないかで成果の質はだいぶ変わります。

行政と市民団体の話に戻すと、そんな一緒に知恵を絞るという過程を経ないイエス・ノーの仕事のやり方に慣れていると、市民団体なんかから不意の提案があったときに、市民団体の話をじっくり聞き、行政ができることとしてその提案をどう変えていくか、一緒に知恵を絞るということがしにくくなるのかもしれません。
実は提案している側の市民団体は、行政が単純に自分達の要望をかなえてくれることではなく、自分達と一緒に考えてくれることを求めているかもしれないのですが。

その結果、市民団体から受けた提案は、採用するかどうかのイエス・ノーだけの判断になり、往々にしてノーとなるのでしょう。
もしくは行政にとって都合のいいところだけを抽出して変形させたもので世の中に出ていき、最初に提案したものからは主旨が大きく離れたものとなって、提案者を失望させるということになるのかもしれません。

やる気とか意欲があったとしても、仕事のやり方で成果の質は大きくかわります。

人からの提案をうまくいかして仕事をするというのは、できる人には簡単で当然のことかもしれないけれども、実はそんなに簡単なことではないのかもしれませんね。
何かを提案されたとき、やるべきは取捨選択ではなく練って育てるという手順です。
そういう意識をもって仕事していかなければいけないなぁと思ったところです。