叱ることは力でねじ伏せるということ2008年04月28日 06時23分57秒

昨日に続き、本の話を。

ほめる技術、しかる作法 伊東明 PHP新書

昨年の秋くらいに一度読んだ本で、この土日に外出しようとして時間待ちで読める本はないかなと本棚から取り出して持って行きました。
こんなタイトルの本を買ったからと言って、ほめ方・しかり方に悩んでいるわけではないです。
本屋に行くと、どうもちょっとした心理学系の本が目に入るのです。
ま、そんな前置きはこれくらいにして。

この本の中では「ほめるときは、ほめることに徹する」という項があって、例えば先生が生徒に「国語の成績が伸びたね、あとは数学を頑張りなさい」という言い方は相手の生徒にとってはほめられている気がしなくて、逆に叱られた気分になると書かれています。
言いがちですよね、こんな言い方。
この本を読んでから、同僚と仕事の打ち合わせをするときなんか、自分がこの言い方になってしまうことがあることに気づくようになりました。
て言うか、よく言ってしまいます。
一言余計なんですよね。
言わなくていいことを最後につけてしまう。

あと、本のタイトル通り、叱る話も載っています。
著者なりの叱る基準、方法が書いてあります。

で、叱ることについては、僕もちょっと考えてきたことがあります。
叱るってのは力でねじ伏せる行為なんだろうなということ。
「もうつべこべ言うのはこれでおしまい」と相手に宣言するようなものじゃないかなと。

叱ることの効果ってあると思います。
相手にブレーキをかけることでしょうね。
「もう遅刻するな!」って叱ったとしたら、相手は自分の意識だけではずるずる変えられなかった習慣を変えられるきっかけにできるかもしれません。
(ダメかもしれませんが)

叱ることが相手にとって何らかの効果があると思うから叱るのでしょうが、叱ることって、叱る側は理由をつけて叱ることを正当化しやすい。
だから、本当は注意程度にして相手の言い分を聞いて、お互いの納得いくところを探っていったほうがいい場面でも、叱ることで押さえつけてしまうことができるのです。
叱るというのは、ほとんどが上下関係の上から下にすることなので、押さえつけるという発想ができます。

力でねじ伏せるって、もうそれ以上考えるのをやめたい、試行錯誤するのをやめたいって思ったときに強引に決着をつけようとする行為なんだと思います。
思考ストップ、議論ストップ宣言なんですね。

ちょっと話は違うかもしれませんが、ゴルフで飛ばそうとしたときなんかも似ています。
飛ばそうと思ったら、力が入ってたら全然ダメですね。
カラダの力を抜いて、軽いスイングをすれば飛ぶんだけど、飛ばしたいって思ったらやっぱりパワーに頼ろうと考えてしまいます。
でも力に走ったらダメですね。
もうこの発想自体、いかに力の抜けたいいスイングをするかという発想から、力わざに走る典型みたいなものです。

ちょっとわかりにくい脱線だったかもしれませんが、ちょっと力をもつと「力でねじ伏せる」という発想がでてきやすいということです。
相手に言いたいことがある時に、相手からの反撃を受けつつ、やりとりしながら妥協点を見つけるって大変だなって思ってしまいますからね。

だからと言って叱ることがダメだとは思いません。
だけど、安易に力でねじ伏せようという発想で叱るという行動にでようとしているのを自分で感じたのであれば、それは自制しないと、相手とのやりとりを自分から拒絶するような変な癖がつくと思っていた方がいいんだと思います。