どうでもいいことに没頭できる時間をつくれない2008年04月11日 06時04分35秒

昨日、鳥の専門家の知人と話していたら、彼は自分のHPで毎年4月1日に大嘘を書くのだと言ってました。
今年の4月1日は、スペースシャトルに彼の研究している鳥が搭乗することになったとアメリカで報道があったという内容にしたそうです。
そのHPを見せてもらったのですが、それがまた凝っていて、大嘘の英字新聞を自分で作ってその解説文をホントに丁寧に書いています。

そして彼はメールで
「時間かけてこんなの書いて、自分ながらちょっと馬鹿みたいですが」
と自虐していました。

だけど、そんな他人からしたらどうでもいいようなことに時間をかけて没頭するって実は楽しいですよね。
(HPで大嘘書いてけしからんという話は置いといて)。
楽しいんだけど、忙しい日常生活の中では、どうもこういう時間が先に削り取られていきます。
そんなことにまわす時間がない。

さらに、僕のことで言うと、かつて連日、深夜遅くまで仕事をしていた頃のくせか、とにかく何でも効率よくしようとすぐに考える習慣が身に付いてしまっています。
何でも効率よくしないと仕事下手になったような敗北感を感じるので、例えば席を立ってコピーをとるのとゴミを捨てるのとを同時にやろうとしたとき、どこをどう歩けば一番効率いいか、手戻りのない手順はどうなのかということをすぐに考えるわけです。
ホントはコピーとゴミの順番くらいどうでもいいのですが、もう無意識に「最小限の労力」というのを考えないと気が済まないような思考になってしまっています。

1日の時間の使い方もそうです。
仕事の時間もあれば、うちに帰って家族と過ごす時間もあるし、うちで本を読んだり文章を書いたりする時間もあります。
全てをやろうとしたら自ずとまたそれを効率よく割り振ろうとします。

通勤電車の中は読書、電車おりてからは歩きながら英会話、夜は早く寝て、早起きして家族みんなが寝ている間に仕事したり勉強したりする。
それもどの時間に割り振ってもいい訳ではなく、読書は身動きがとれずほかのことができない通勤電車が適していて、英会話なんかは通勤電車や昼休みの会社の中ではぶつぶつつぶやく訳にはいかないから、会社までの歩く時間がいちばんいいのです。

でもそうやって効率よくいろんな時間をやることで埋めていくと、確かにいろんなことが効率よくできるようになるのだけれども、実はあてもなくぼやーっと考える時間がなくなっていきます。
そうすると面白いアイデアが自分の中から出てきにくい。
アイデアってまじめにじっくり考えているときより、ぼやーっと考え事をしているときにふっと出てくることが多いような気がします。
反対に机に向かってじっくり考えるのは、アイデアがあってそれを理詰めでカタチにしていくようなときに向いているような気がします。

適当にどうでもいいことを楽しめる時間もとりながら、もう少し気分的にゆとりのある時間の使い方をしなきゃ生活自体が楽しくなくなるし、発想も貧困になっていくなぁと思うんだけど、やっぱり気がついたら何かに追われるような生活をしているんだよなぁ。