潔さだけが責任のとらせ方ではないと思う2008年02月28日 05時40分38秒

組織に不祥事があったとき、トップが辞任して決着させることがよくあります。

偉い人達が並んで頭下げておきまりのように謝罪して社長辞任。
また逆に「この事態を収拾させるのが私の役割」と言ってトップに残り続ける人もいます。

すぐに辞めると「潔い」、残ると「しがみついている」という印象を無意識に持つような気がします。
潔さ、りりしさのある態度は受け入れられやすい。
そんな意識がニュースの受け手に働くのだと思います。

社長がその不祥事に直接タッチしていた場合は言うまでもなく、社長の手が届く幹部達が関与していたときもやはりダメでしょうね。
辞任当然。

さらに社長が作り上げた会社で、偽装みたいなことが常態化していてそれが内部の常識になっていたときなんかも、社長やその周りのブレイン達が気づいて諫言し改革できる機会はあったはずだと考えれば、その指揮を執れる立場にあった社長が引責するというのは正当な結末と言えるのかもしれません。

だけど過去からの長い歴史の中でできあがった組織文化のなかで起こるべくして起きたような不祥事や、いつ明らかになってもおかしくなかったようなことが、たまたまその人がトップにいたときに起きたという場合は、必ずしも辞任が適切な引責方法ではないのではないかと思います。
このパターンの時には「潔い辞任」より「残って改革」がそのトップの役割でしょう。

先に挙げた「しがみついている」と見そうになる場合も、本当にしがみついている場合と、このパターンでの「残って改革」の役割を自覚して残ろうとしている場合とがあって、周りはこれをきちんと峻別しないといけない。

いま石破防衛大臣がいつ辞任するのかというのがニュースの注目点になっています。
石破大臣自身の決定的な判断ミスがあれば別ですが、不祥事だから即辞任させるというのは発想が短絡的のような気がします。
過去の思考方法、何となくの常識的な思考に沿って、それを正論だと確信して主張する場合って、僕らにもよくあることです。

地位の高い人の弱みを見つけたとき、そこを攻めてその人を自分と同じ高さか、あわよくば下に落としてしまおうという心理も働くのかもしれません。
これも政治だけでなく僕らの日常でも見られることです。

潔さか執着か、見る方がしっかり分けないといけないと思います。