やり過ぎの親切はやめたほうがいい2010年06月02日 06時35分10秒

石狩川でボートを使って鳥の調査をする予定になっている。
人の日程調整するだけでなくて、川の流量、鳥の動き、道具が借りられるかとか、ひとつ調査をするだけで考えることはたくさんある。
調査はその場で状況判断することが多い。
だから経験は頼りになる。
だけど、その場で判断するから事前の準備は意味がないかと言えばそうではないよね。
僕の考えとしては、考えられることはとにかくいろんなことを考えておく。
自分の想像力を使い果たすくらいに。
それで、いざ始まったら、その時の状況に合わせて瞬発力で判断していく。
その時には事前の想定にはこだわりすぎない。
でも、事前にいろいろ考え尽くしたことが活きるんだよ。
ぱっと浮かぶ選択肢が増えるはずだから。


昨日、帰りにヨドバシカメラに寄って帰った。
自宅で使うA4の写真用紙を買った。
100枚パックを買ったらカバンがすごく重くなった。
安いプリンターでも写真がとてもきれいにプリントできるようになったから、僕はもう店に写真のプリントを頼むことはなくなった。
でも、最近は実は自宅でプリントすることが必ずしも安くすんでいるか疑問に思うようになってきた。
あとあと色あせしないために、写真用紙もいいのを買い、カートリッジも純正のを買っている。
なので結構高くつく。
単価で考えたら実は店に出してもそんなに変わらないのかも。


最近、買い物したら、店員さんが袋をテープでとめるときに、テープの端っこをちょこっと折り返してくれるようになった。
ヨドバシカメラとか紀伊國屋で気づいたんだけどね。
客があとでテープをはがしやすいようにという、ちょっとした気遣いというか親切だよね。

だけどさ、こんなことやらなくていいんじゃない?
こういう親切が客をダメにするんだよ、たぶん。
これに慣れてきたときに、客のほうは当然のことと思うようになってくるよね。
最初は親切だなと感謝の感覚だったのが、当然の感覚になる。
そうしてくれない店に行ったら、何と気遣いのない店かと無意識に思うようになったり。
そうやって、客がどんどんずうずうしい感覚になっていく。

まぁ、お店だけに限った話じゃないけどね。
どんな仕事でも当てはまる。
仕事相手に喜ばれようと思ってちょっとした親切をグレードアップしていくんだけど、相手はその親切をいつの間にか当然のことと思うようになる。
ボーダーラインが上がるんだね。
親切が当然の感覚になって、そうされないと物足りないような感覚になる。
何かね、そういうことの積み重ねが、結局は世の中をぎすぎすさせることにつながるような気がするんだよなぁ。
もとは喜んでもらってお互いにハッピーになるための小さな親切だったはずが、結果的にはなぜかぎすぎすにつながる。
やり過ぎの親切はやらないということか。

石狩川の川下り調査、シミュレーション2010年06月14日 18時10分18秒

石狩川で川下りの調査をしてきた。
最初、ボートのエンジンがなかなかかからず、ケータイで会社の人に聞いてやっと動いたり、エンジンかかって調査が進み出したなと思ったら、川底にプロペラがガシッと当たって空回りし出したり。
また会社のほかの人に電話して、修理方法を聞いて回復した。
川の上からケータイでやりとりするっておそまつだけど仕方ない。
それでもあとは順調に進んで今日の予定分は終了。
また明日も石狩川川下り調査だ。


10年以上続いていた、長沼温泉でのシミュレーションのシンポジウムが今年からなくなった。
残念。
僕にとっては、本州コンサルが実務でどんな計算をしているのかを知るいい機会だったのだけど、やむなしだね。
その代わりに、札幌でもっと実践的な勉強会のようなものを立ち上げようということになった。

それとは別に、僕が幹事役で続けてきている北大での数値計算の勉強会が今週の金曜にある。
こちらは実務での計算事例の発表と先生の講演(プレゼン)の予定。
続けてきたことで、僕もずいぶん勉強になったし、参加してきた人もシミュレーションが身近な感覚になったと思う。
実際に何を勉強するかも大事だけど、その場に居続けることで、難しい話に何となく頭が慣れて、敷居が低くなることも重要かなと思う。
それには時間が必要で、言い換えると、時間をかけてきた人に知らないうちに身に付くことなんだと思う。


石組みでの落差工の設計の最後の詰めが終わらない。
設置する石に必要な大きさが定まらないのだ。
安定計算で必要な大きさは求まる。
それに、クレーンで吊れるかどうか、切り出してくるときにその大きさの石があるかどうか、考えることはいろいろ。
石の安定計算自体も、もう少し考え方を整理した方がいいなと思いつつ、根拠資料まとめをどこで収束させるかを考えるほうが優先かな。


明日はまた石狩川へ。
そのために早く帰ってきたので、早く寝て、明日に備えよう。

チリの10番の髪なびかせてる人いいね2010年06月17日 20時20分21秒

サッカーW杯をちらちら見てるんだけど、チリが面白いね。
何となく、おおざっぱと言うか、こぢんまりとまとまってないと言うか、特に10番の髪なびかせてる選手が良かった。
名前は覚えてないけど。
スピードあるし、相手にそのままどーんとぶつかって跳ね飛ばすし、14番の人のほうが注目されてるみたいだけど、僕は10番の人がファンだな。
チリは次は無敵艦隊スペインを破ったスイスだね。
堅守をこじ開けて撃破してくれ~。

最近読んだ本:古田敦也、清原和博、一日一生2010年06月23日 23時38分42秒

「優柔決断」のすすめ 古田敦也 PHP新書

ひと頃のはやりで、一番を目指すのではなくオンリーワンを目指そうとよく言われたけど、でもさ、実際にはオンリーワンを目指すって何をどうやればいいのかわからないんだよね。
一番を目指すってのはできるんだけど。
一番になれるかどうかはわからないけど、とりあえず上にいる人に勝っていけばいいんだから。
本当に勝てるかどうかはやってみないとわからないけど、努力の方向は決められるからね。
で、あとはその努力ができるかどうかの問題になる。

一番でなくオンリーワンを目指すというのは、そもそもどこを向いて努力すればいいのかという、一歩目の踏み出し方がわからなくなるから、実は普通の人には簡単ではないことだと僕は思うんだわ。
だから、でもオンリーワンを目指しているというアピールで、自分探しっていうまた都合のいい言葉が流行って、とどまり続けることの言い訳ができてしまう。
(お、自分探しってもう死語かな)

仕事の場面では、オンリーワンに近い意味で、独創性とかオリジナルな発想とか言う言葉で、自分のやり方を確立せよとか言われたりして、人の顔色をうかがったり、自分を殺して上司の考え方に合わせるような態度をとることは、一般論としてあまり良くは言われないね。
むしろ何を言われても我が道を貫いて、それを見る人は見ていて、結果的に周りが自分を評価するようになるのだと。

正論なんだけど、よほど自信があって我が道を貫いても、評価してくれなければ何にもならないんだよね。
例えばイチローのようなイメージで、技術が誰も手が届かないような超一流になれば周りが自分を買ってくれるし、周りが自分にあわせてくれる。
でも、ほんのほんの一握りの超一流の人でなければ、そんな立場になることはほとんどないと思うのよ。
だとしたら、自分がやることやってればいつかは評価してくれるなんて甘いことを考えず、まずは自分を多少殺してでも、周りにあわせて自分を使ってくれるようにし向けることが大事じゃないかと僕は思っている。
で、僕はこれまでそうやって過ごしてきた。
だからある意味優等生のようなふるまいをするし、会社では上司や相手先に好かれるようなやり方をとるときが多かったし、今でもやるときはやるね。
白状するけど。

で、ずっと前に古田のインタビュー記事を新聞で読んだときに、同じようなことが書いてあったのよ。
古田自身、普通の公立高校から大学の野球部に進んだときに、周りのレベルに圧倒されて、でもその中で生き残っていくためには、とにかく監督に自分を使ってもらえるようにしなきゃと。
だから監督が好むようなプレースタイルをひたすら考えて実行して試合に出られるようになり、プロに入っても、野村監督から使ってもらえるようにまた野村監督を観察して、野村監督の好みの選手になることで試合に出られるようにしていったと。
僕は自分がやってきたような、人に気に入られる優等生タイプの身のこなし方に多少引け目を感じていたのだけど、その記事を読んでから、あの古田でもそういう作戦ありきのような生き延び方で超一流になったんだったら、それはそれでひとつのやり方として自信持っていいのかもなって思ったんだわ。
で、この本にも「選ばれるために何をしたらいいのか」という言い方で同じことが触れられている。

つまり、いつかは誰かが土俵に上げてくれると我流で四股を踏み続けるのではなく、未熟なうちは自分を捨てて、早いうちから土俵にあげてくれる方法をまず見つけて、土俵の実践を重ねた方がいいということ。
(野球の話なのに相撲の例えになっちゃった)
努力タイプの人が勝ち残っていく方法は、最初からオリジナルを追求するのではなく、相手の求めに応じることで相手に認めてもらって、その先で満を持して飛躍する。
どうでしょうか。


反骨心 清原和博 角川oneテーマ21(新書)

読んだのは実は最近ではなくずっと前なんだけど。
僕は清原大好きという人だから、清原モノはひいき目になる。
先の古田の本と比べると、古田のほうはいろんなことが今の自分の考え事の参考になるけれど、こちらの清原のほうは、参考にと言うより、清原の回顧録を「ああそうだったのか」と読みふけるという感じ。
なので、僕には面白いけど、清原に何の関心も持ってない人が読んでも、何とも思わないだろうね。


一日一生 天台宗大阿闍梨 酒井雄哉 朝日新書

戦争や戦後の苦難のあと、比叡山で行をして住職になっている人の本。
読んでいると、こういうことをいわゆる悟りというのかなと、わかったようなまだまだわからないような気になる。
だけど、悟りのまねごとに近づくには日常でどういう心持ちで過ごしていけばいいのだろうかということを少しは考えられるような気にもなる。
僕は最近、朝起きてから、朝食前にひと歩きしているのだけど、実はこの本を読んでから、歩くことで何か僕にも見えてくることがあるかもしれないと単純に思ったからというのもひとつのきっかけ。
でも、歩けどもまだ何も見えず。

「もうそんな時代じゃない」の今の時代は2010年06月27日 20時09分03秒

大相撲の野球賭博問題ってさ、今の世の中としては悪いことだというのもわかるんだけど、こういうたたき方をする世の中のほうが危なっかしいなぁと思うんですわ。

「もうそんな時代じゃない」って言い方するでしょ。
昔は何でもありでいろんなことをやっていてさ、そんな習慣で何かをやり続けていたら、いつの間にかやってる人が取り残されていて、でも当の本人方はそれに気づかず、改まった人たちから見たら「まだそんなことやってるの? もうそんな時代じゃないのに」と言いたくなるんだよなぁ。

「もうそんな時代じゃないのに」と言うほうは、自分が心を入れ替えた側のいい人達のほうに入っているつもりだから、相手を見下すというか、自分たちが正しい人という善人になりきって言うんだね。
僕もそういう言い方をすることあるけど、やっぱりそういう風に、ちょっと自分のほうが先を行ってるような感覚で言ってるね。
その時は無意識なんだけどさ。

でもさ、本当にそんな時代じゃないとして、じゃあその今の時代って、どんな時代なんだろうね。

相撲の人たちが野球賭博やらない健全な世の中?
「もうそんな時代じゃない」と言う人が思い浮かべる「今の時代」はどれだけ健全できちんとしていて生きやすい世の中なんだろうね。

相撲の人たちの野球賭博くらい許してやれと言ってるんじゃないよ。
言い方が難しいんだけど。

汚い、不健全なこと、きちんとしていないことをどんどんなくしていって、きれいできちんとした世の中になっていくことで、どれだけ人が過ごしやすい、いい世の中になるのだろうかって思ったのさ。
むしろ、些末なことまで決まり事ができて、「これやりなさい」「これはやってはいけません」というのに縛られて、どんどん日常が窮屈になっていく。
日常で求められることのボーダーラインがどんどん高くなっていくんだな。

いろんなことをきちんとしたい人はいいんだ。
きちんとした世の中のほうが居心地がいいから。

でもさ、きちんとした人でも、全てがきちんとしているかというと実はそうでもなくて、自分が気になったことをきちんとしていたいだけで、全てのことに気づくことはありえないから、完璧にはなれないんだ。
だから、きちんとした人も、どこか知らないうちに窮屈さを感じて、満足感もありつつ気づかない不満を抱えることになりかねない。

いろんなことがきちんとされていくことで、自分もそうしないと叱られたりするから、みんなやっぱりルールには従おうとするんだけどさ、知らず知らずのうちに脱落していく人もいる。
世の中の目に見えないボーダーラインが上がることで。

「もうそんな時代じゃない」と言いたがる人がつくろうとする世の中、世の中って大げさじゃなくて職場とかグループでもいいよ、そういう発想できちんとしたみんなが過ごしやすい世の中をつくろうとすることが、ひょっとすると結果的にはみんなが生きにくい世の中をつくってしまったってことになるのかもしれないよね。

大げさかな。

世の中の大きな流れだから、誰も変えられないだろうけどね。
ま、自分だけは、「もうそんな時代じゃない」という言葉を使おうとしたときに、気をつけようと思うよ。