神戸のあの激流を河川の専門集団は予測できたか(その3)2008年08月04日 06時33分42秒

先週の金曜日、札幌で河川水文シンポジウムという研究発表会があり、そこで室蘭工大の学生さんが、ある川でのハザードマップ作成に至るプロセスの発表をされていた。
雨の解析から始まり、流出計算、河川の水位の計算、氾濫した流れの計算をして、避難の計画を立てられていた。

全てがセオリー通りで文句のつけようはないのだけど、あの神戸の事故を思い出しながら聴くと、何かが物足りない気もした。
その計画で本当に人を守れるのか。

手順に沿ってきっちり積み上げてできた計画は、とてもきれいで、もっともらしく見える。
手順に従うことでこぎれいな計画は立てられる。
だけど、手順がある程度確立されたものは、仕事がルーチンになり、こなして答えを出すことに意識が向かってしまう。

手順に従って答えを出すことが仕事ではなく、手順には従いつつ洪水からできる限り人を守るという方法をひねり出すことが仕事だ。
マニュアルに沿った仕事をすると、人を守るんだという本来の意識が薄れて、その熱意からの試行錯誤が欠けてしまう。

具体的には、特に中小河川の計画では、洪水到達時間にもっと目を向けなければいけないのではないか。
やり方は確立されているけれども、実態と合っているのか、それで本当にあの神戸のような激流が到達する時間が計算できるのか。

もうひとつは降雨分布のばらつきを流出計算に取り込むことだ。
どこのエリアにどんな雨が降ったときに、一番被害が出そうな洪水が発生するのか、いろんなパターンを想定して計算をする。
計算するだけならそんなに金はかからない。

最後に、僕自身がひとつ引っかかっている大きな問題があって「既往最大の呪縛」だ。
治水計画を立てるときに、必ず既往最大という言葉が出てくる。
既往最大降雨、既往最大流量など、既往最大がひとつの目安になる。

だけど既往最大という発想に縛られすぎると、そこで限界ができてしまわないか。
無限の計画を立てられないというのも理解できるけれども、既往最大という言葉で安易に限界をつくってしまっていないか。
想定内、想定外という線引きがつくられやすくなる。

この既往最大という言葉が悪く作用することがあるような気がする。
僕自身しばらく考え続けようと思う。