神戸のあの激流を河川の専門集団は予測できたか(その2)2008年08月01日 06時25分28秒

あの激流が突如発生することがあるということを、河川の技術者・研究者が想像できただろうか。

山のほうでまとまった雨が降れば、街中で雨が降っていなくても、川の水は気づかないうちにどんどん増えてくることがあるということは、一般論としては河川の関係者ならば容易に思いつく。
だけど、もうひとつ一般論として、水位が上がるのは地震ほどの突然ではなく多少の時間はかかるという「常識」がある。

あの鉄砲水のような激流は、実は河川の技術者・研究者にとって、専門家が知識によって縛られる常識を外れたものだったのではないか。

計画論という言葉がある。
計画を立てるときの論理的な考え方という意味だ。

計画論としては、ある洪水を想定して対策を考える。
あらゆるパターンの洪水を想定するとすれば、そのパターンは無限となるから、現実的にはある守るべく危険度を設定してその範囲での洪水を想定するのがセオリーだ。
なので、この時点で想定されるパターンに入らなかった想定洪水は、いわゆる想定外ということになる。

だけど想定外という言葉を安易に使うべきではない。
想定外だったとすれば、それは想定する能力が足りなかったか、想定する努力が足りなかったのだ。

例えば一般家電なんかで製品の誤った使い方で事故が起きたとき、そんな使われ方は想定外でしたという言い訳が通用するかというとそうではない。
そういう使われ方をされるかもしれないということを想像して試験を繰り返して製品開発をすべきだと世間からは非難されるだろうし、そのように製品開発をしているはずだ。

想定できたけどやらなかったのか、そもそもやろうとしても想定できなかったことなのか。
実はここが大事な分かれ目ではないかと思う。