HBCテレビ欄の縦読み ― 2014年08月10日 20時24分52秒
「投資なんかしなくていい」 ― 2009年03月28日 07時11分54秒
おとつい3月26日の朝日新聞の意見欄に、弁護士の方が考えを述べられていた。
この方は500人の弁護士で構成される「先物取引被害全国研究会」の事務局長で、かつ自身は金融商品の被害を専門に扱う事務所でその対応をされてきた方だという。
その方が言う。
「投資なんか、しなくていい」
一生を通じてまさに一生懸命貯めてきた財産が一瞬にして失われるケースをたくさん見てきたようだ。
投資話に乗っかった被害者が悪いという見方もあるけれども、このご時世投資するのが賢い生き方だとか、お金を眠らせておくのはバカなやり方だというような、金融業界の立場がつくりだす巧みな雰囲気のまれてしまうのが被害のもとだと指摘する。(表現は違うけど)
超低金利時代だから貯金してお金自体が減らなくても、物価が上がると貯金額は相対的には下がる?
いやいや、インフレ率も低いから貯金の相対額も下がらない。
それより株価が下がるのなら、貯金は結果的には高利の運用だという。
新聞の意見欄とはいえ、かなり辛辣で直球勝負の書き方をされていてものすごく伝わってくる。
僕もずっと思っていた。
そんなにうまい話は転がっているはずがない。
こつこつ貯金することが愚直すぎる不器用なやり方で、賢く世の中を渡って行くには投資だよというような風潮には、そうだよなと気を許す気にはならなかった。
(かといってせっせと貯金しているかというと浪費ばかりでそうでもないんだけど)
お金がお金を生むという発想には僕はなじめない。
あ、でも競馬はやるよ。
今は年に1回やるかやらないかだけど、その時は金を賭けて金が増えればいいなと目論む。
でもさ、遊びの範疇だよ。
ちょっと儲けて、それで何買えるかなとか考えることが楽しい。
ほどんどかなわないんだけど。
それにさ、金に思考が振り回されるようになると、発想がゆがむよね。
いい発想、いい仕事すれば、それなりに金はついてくる。
金をうまく稼ぐ、金をうまく動かすと思ったときが危険信号だ。
この方は500人の弁護士で構成される「先物取引被害全国研究会」の事務局長で、かつ自身は金融商品の被害を専門に扱う事務所でその対応をされてきた方だという。
その方が言う。
「投資なんか、しなくていい」
一生を通じてまさに一生懸命貯めてきた財産が一瞬にして失われるケースをたくさん見てきたようだ。
投資話に乗っかった被害者が悪いという見方もあるけれども、このご時世投資するのが賢い生き方だとか、お金を眠らせておくのはバカなやり方だというような、金融業界の立場がつくりだす巧みな雰囲気のまれてしまうのが被害のもとだと指摘する。(表現は違うけど)
超低金利時代だから貯金してお金自体が減らなくても、物価が上がると貯金額は相対的には下がる?
いやいや、インフレ率も低いから貯金の相対額も下がらない。
それより株価が下がるのなら、貯金は結果的には高利の運用だという。
新聞の意見欄とはいえ、かなり辛辣で直球勝負の書き方をされていてものすごく伝わってくる。
僕もずっと思っていた。
そんなにうまい話は転がっているはずがない。
こつこつ貯金することが愚直すぎる不器用なやり方で、賢く世の中を渡って行くには投資だよというような風潮には、そうだよなと気を許す気にはならなかった。
(かといってせっせと貯金しているかというと浪費ばかりでそうでもないんだけど)
お金がお金を生むという発想には僕はなじめない。
あ、でも競馬はやるよ。
今は年に1回やるかやらないかだけど、その時は金を賭けて金が増えればいいなと目論む。
でもさ、遊びの範疇だよ。
ちょっと儲けて、それで何買えるかなとか考えることが楽しい。
ほどんどかなわないんだけど。
それにさ、金に思考が振り回されるようになると、発想がゆがむよね。
いい発想、いい仕事すれば、それなりに金はついてくる。
金をうまく稼ぐ、金をうまく動かすと思ったときが危険信号だ。
持ち歩くパソコンとUSBメモリーは肌身離さず ― 2008年05月14日 06時03分31秒
昨日の朝日新聞記事に、東京の小学校で子供の成績データが入ったUSBメモリーがなくなって、拾ったという人から400万円で買えという手紙が届いたという記事が載っていました。
記事の書かれ方では、そのUSBメモリーはある先生の私物で、普段は自分の机の引き出しに入れてあって外部へは持ち出ししていないらしくて、「拾った」というのがどうもあやしいというニュアンスが感じられます。
内部の人の仕業?
誰が犯人なのかはわからないんだけど、持ち主の先生は、自分のUSBメモリーひとつのことで、こんな全国すみずみの人が見聞きする話題に自分が当事者になるとは全く想像もしなかったでしょうね。
例えば僕自身、自分が持ち歩いているUSBメモリーがなくなったとして、それが全国ニュースになるとは考えもしないですから。
少し前ですが、同僚が車上荒らしでパソコンを盗まれました。
仕事のデータも少し入っていたことから、そのあと役所に説明に行って謝ってということをやっていました。
だけど僕も他人事ではないんですよね。
その同僚より僕のほうが明らかにパソコンを持ち歩く頻度は高い。
打ち合わせ、発表、仕事の持ち帰りなどなど、そのために使うパソコンもどんどん小さくしています。
持ち歩く頻度が高い分、盗難・紛失には多少は神経質になっていて、昼飯のときには車に残さずリュックごと店に持ち込むとか、カフェにいてトイレに行きたくなったときも店に残さずにカバンごと持って行くとか。
だけど100%徹底しているかというとそうでもなくて、10回に1回か2回は「まぁいいか」って面倒がって残していったりもしていました。
一番面倒なのはJRの特急の中。
電車のトイレは狭いからパソコン入れたカバンを持って入りたくないんですよね。
でも直前まで車内でパソコン作業をしていたわけだから、周りの乗客は僕がパソコンを持っているのを知っている。
仮にカバンの中にしまったとしても、そのカバンの中にパソコンがあることがバレバレなわけです。
その盗難事件があってからは持ち歩くよう徹底するようになりましたけどね。
近所に住んでいる先生夫婦の話を聞いたら、やはり僕なんかよりも徹底していて、指紋認証で他人では開けないようにしていたり、持ち帰るときは絶対に買い物とか寄り道しないとか、そこまではしんどそうだなぁって思うようなことをやっています。
学校の先生なんかは何かあったときすぐにニュースネタになってしまいますからね。
僕らなんかの意識とは違いすぎます。
持ち歩いて仕事しやすいように選んだパソコンなのに、トラブルを嫌がって持ち歩かなくなって不便を感じるようになったというのでは本末転倒だし。
「肌身離さず」を徹底してトラブルを防ぐしかないんでしょうね。
記事の書かれ方では、そのUSBメモリーはある先生の私物で、普段は自分の机の引き出しに入れてあって外部へは持ち出ししていないらしくて、「拾った」というのがどうもあやしいというニュアンスが感じられます。
内部の人の仕業?
誰が犯人なのかはわからないんだけど、持ち主の先生は、自分のUSBメモリーひとつのことで、こんな全国すみずみの人が見聞きする話題に自分が当事者になるとは全く想像もしなかったでしょうね。
例えば僕自身、自分が持ち歩いているUSBメモリーがなくなったとして、それが全国ニュースになるとは考えもしないですから。
少し前ですが、同僚が車上荒らしでパソコンを盗まれました。
仕事のデータも少し入っていたことから、そのあと役所に説明に行って謝ってということをやっていました。
だけど僕も他人事ではないんですよね。
その同僚より僕のほうが明らかにパソコンを持ち歩く頻度は高い。
打ち合わせ、発表、仕事の持ち帰りなどなど、そのために使うパソコンもどんどん小さくしています。
持ち歩く頻度が高い分、盗難・紛失には多少は神経質になっていて、昼飯のときには車に残さずリュックごと店に持ち込むとか、カフェにいてトイレに行きたくなったときも店に残さずにカバンごと持って行くとか。
だけど100%徹底しているかというとそうでもなくて、10回に1回か2回は「まぁいいか」って面倒がって残していったりもしていました。
一番面倒なのはJRの特急の中。
電車のトイレは狭いからパソコン入れたカバンを持って入りたくないんですよね。
でも直前まで車内でパソコン作業をしていたわけだから、周りの乗客は僕がパソコンを持っているのを知っている。
仮にカバンの中にしまったとしても、そのカバンの中にパソコンがあることがバレバレなわけです。
その盗難事件があってからは持ち歩くよう徹底するようになりましたけどね。
近所に住んでいる先生夫婦の話を聞いたら、やはり僕なんかよりも徹底していて、指紋認証で他人では開けないようにしていたり、持ち帰るときは絶対に買い物とか寄り道しないとか、そこまではしんどそうだなぁって思うようなことをやっています。
学校の先生なんかは何かあったときすぐにニュースネタになってしまいますからね。
僕らなんかの意識とは違いすぎます。
持ち歩いて仕事しやすいように選んだパソコンなのに、トラブルを嫌がって持ち歩かなくなって不便を感じるようになったというのでは本末転倒だし。
「肌身離さず」を徹底してトラブルを防ぐしかないんでしょうね。
道路の「注意!」看板は無責任か ― 2007年11月29日 21時42分38秒
24日付け朝日新聞の夕陽妄語で評論家の加藤周一氏は、道路の交差点でしばしば見かける「事故多し」「注意!」の看板について、その場所が危険なのであれば危なくないように改善すべきで、看板を立てるだけで平然としているのは途方もない時代錯誤で責任感がないという主旨の文を寄稿されている。
しかし果たしてそうだろうか。
加藤氏は病気を引き合いに出し、病気の原因を知りその原因を除いて病気を治すのと同じように、原因を抑えれば事故は減るに違いないと述べている。
確かにそうだ。
その交差点で事故が多い原因を調査し、それを軽減できる策を講じれば事故は減るだろう。
しかし道路の場合は道路を危なくないように改善するだけが
対策ではない。
見通しの悪さなど道路そのものの構造上の欠陥はできる限り改良すべきだが、運転手の注意が前方からそれる要因がほかにある場合や、歩行者に原因がある場合は道路を改良する前にその原因を取り除く必要があり、その策が看板の場合だってあるだろう。
道路は人工物である以上、管理者が安全を維持する役割を負うことになるが、どこまでの安全を保証できるかは実はコストとの兼ね合いとなる。
安全に金を惜しむべきではないと言いたくなるが、安全のためなら公共の予算をいくらでもつぎ込んでいいという議論にはならない。
注意喚起の看板について問題提起をするのであれば、看板を立てるという方法が安全策を綿密に検討して得られた結果なのかどうかを指摘すべきで、看板を立てるだけの対策があたかも短絡的で無責任な方法だと決めつけて言うのは、評論家として恣意的すぎるのではないだろうか。
役人がやることは片手落ちだという、自身の先入観と世間の風評に乗っかって論評されているように感じたが、ふとした思いつきの考えで他人を責めるのではなく、世の中を良くするための新しい視点、深い洞察力に基づいた独自のアイデアを評論家には求めたいところである。
しかし果たしてそうだろうか。
加藤氏は病気を引き合いに出し、病気の原因を知りその原因を除いて病気を治すのと同じように、原因を抑えれば事故は減るに違いないと述べている。
確かにそうだ。
その交差点で事故が多い原因を調査し、それを軽減できる策を講じれば事故は減るだろう。
しかし道路の場合は道路を危なくないように改善するだけが
対策ではない。
見通しの悪さなど道路そのものの構造上の欠陥はできる限り改良すべきだが、運転手の注意が前方からそれる要因がほかにある場合や、歩行者に原因がある場合は道路を改良する前にその原因を取り除く必要があり、その策が看板の場合だってあるだろう。
道路は人工物である以上、管理者が安全を維持する役割を負うことになるが、どこまでの安全を保証できるかは実はコストとの兼ね合いとなる。
安全に金を惜しむべきではないと言いたくなるが、安全のためなら公共の予算をいくらでもつぎ込んでいいという議論にはならない。
注意喚起の看板について問題提起をするのであれば、看板を立てるという方法が安全策を綿密に検討して得られた結果なのかどうかを指摘すべきで、看板を立てるだけの対策があたかも短絡的で無責任な方法だと決めつけて言うのは、評論家として恣意的すぎるのではないだろうか。
役人がやることは片手落ちだという、自身の先入観と世間の風評に乗っかって論評されているように感じたが、ふとした思いつきの考えで他人を責めるのではなく、世の中を良くするための新しい視点、深い洞察力に基づいた独自のアイデアを評論家には求めたいところである。
朝日記事「富良野塾 閉塾へ」倉本聰さんの苦言 ― 2007年11月24日 06時09分51秒
11月21日の朝日新聞に倉本聰さんが富良野塾を2010年に閉じるという記事がありました。
なぜやめるか。
これからは飛び込んできたばかりの若者を育てるのではなく、塾を巣立った卒塾生をもう一度教えていく場をつくるのだそうです。
たまごをかえすのではなく、ヒナを育てる、成鳥を鍛えるということなのでしょう。
コメントの中に、年々応募してくる若者の質が低くなってきていて、受け身で教わろうという態度が目立っているとありました。
大学院レベルで講義をやりたいのに、現状ではついてこられる塾生が少ないのだそうです。
富良野塾くらいになれば、相当な志があって覚悟を決めたような若者が集まるのだろうと思っていたのですが、そうもならなくなってきているようです。
あるいは志はあっても、行動が伴わないのでしょうか。
知り合いの大学の先生と話をしていても、学生の学力低下が甚だしいとよく嘆かれます。
理系で工学部に進んできているのに、高校レベルの微分積分がおぼつかない。
僕も学生さんと話をすると、具体の知識レベルよりいわゆるやる気のところで物足りなさを感じるときがよくあります。
学生さんと就職の話をしたら、楽なところがいい、休みがとれて残業がないところじゃないとダメなんですということを平然と言います。
自分の時間がきっちりとれないとイヤだそうです。
ま、それはそれで大事なことだし、個人の価値観なので全くの否定はしませんが、その意識が先行するのはちょっともったいない気がします。
僕も同じく自分の時間は大事で、いまは時間を惜しまず仕事をしようとは思わないです。
ただ自分の時間のほうが大事なのでなく、仕事とプライベート両方大事で、それを両立させようとして葛藤しています。
僕が学生さんと話をしたときに感じた違和感は、両立でなくプライベートに重きがありすぎること、それと、それが自分からわき出た考えというより世間の風潮に流されて思いこんでいるような気がしたことです。
もっともらしいですからね。働き過ぎはよくないという話は。
テレビや新聞でのそんな言い方を聞いているうちに、それが自分の考えのようになっていくのでしょう。
仕事はほどほどにして、自分の時間が大事とするのもいいです。
だけどそう考えている間に、まわりの頑張る人にどんどん先を行かれてしまいますよ。
正論を主張している間に自分が取り残されているという状態が起こりえます。
10年後そうなっていたら、頑張ってきた人と同じ土俵に乗っかれず、まわりでぼやくだけの立場になってしまいます。
頑張ってばかりでは疲れるし、仕事だけの一辺倒もいいとは思っていませんが、志は高く、いろんなことにやる気をもって、あとは時間のやりくりで高めていくというのでどうでしょうか。
なぜやめるか。
これからは飛び込んできたばかりの若者を育てるのではなく、塾を巣立った卒塾生をもう一度教えていく場をつくるのだそうです。
たまごをかえすのではなく、ヒナを育てる、成鳥を鍛えるということなのでしょう。
コメントの中に、年々応募してくる若者の質が低くなってきていて、受け身で教わろうという態度が目立っているとありました。
大学院レベルで講義をやりたいのに、現状ではついてこられる塾生が少ないのだそうです。
富良野塾くらいになれば、相当な志があって覚悟を決めたような若者が集まるのだろうと思っていたのですが、そうもならなくなってきているようです。
あるいは志はあっても、行動が伴わないのでしょうか。
知り合いの大学の先生と話をしていても、学生の学力低下が甚だしいとよく嘆かれます。
理系で工学部に進んできているのに、高校レベルの微分積分がおぼつかない。
僕も学生さんと話をすると、具体の知識レベルよりいわゆるやる気のところで物足りなさを感じるときがよくあります。
学生さんと就職の話をしたら、楽なところがいい、休みがとれて残業がないところじゃないとダメなんですということを平然と言います。
自分の時間がきっちりとれないとイヤだそうです。
ま、それはそれで大事なことだし、個人の価値観なので全くの否定はしませんが、その意識が先行するのはちょっともったいない気がします。
僕も同じく自分の時間は大事で、いまは時間を惜しまず仕事をしようとは思わないです。
ただ自分の時間のほうが大事なのでなく、仕事とプライベート両方大事で、それを両立させようとして葛藤しています。
僕が学生さんと話をしたときに感じた違和感は、両立でなくプライベートに重きがありすぎること、それと、それが自分からわき出た考えというより世間の風潮に流されて思いこんでいるような気がしたことです。
もっともらしいですからね。働き過ぎはよくないという話は。
テレビや新聞でのそんな言い方を聞いているうちに、それが自分の考えのようになっていくのでしょう。
仕事はほどほどにして、自分の時間が大事とするのもいいです。
だけどそう考えている間に、まわりの頑張る人にどんどん先を行かれてしまいますよ。
正論を主張している間に自分が取り残されているという状態が起こりえます。
10年後そうなっていたら、頑張ってきた人と同じ土俵に乗っかれず、まわりでぼやくだけの立場になってしまいます。
頑張ってばかりでは疲れるし、仕事だけの一辺倒もいいとは思っていませんが、志は高く、いろんなことにやる気をもって、あとは時間のやりくりで高めていくというのでどうでしょうか。
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