釧路(補足)2015年02月21日 06時02分45秒

雪裡川の橋からのタンチョウ、実際はこんな感じでだいぶ遠い。

出来事、雑感もろもろ2015年02月21日 06時44分13秒

ある学会の編集委員会で5月の出版号主担当になっていて、昨年11月の会議にまず出席したのはいいのだけど、今月上旬にあった会議は前日にインフルを発症して欠席、4月上旬の会議は主担当なのでリベンジと思っていたら、本命業務のプロポのヒアリングと日が重なってしまった。
どちらをとるべきかとかいう問題でなく、先約優先だと主張してプロポのヒアリングを蹴るわけにいかず、やむなく編集会議は欠席、でも北海道地区が主担当なので誰かに代理をお願いすることになる。
ま、仕事してればこういうことはたまに生じる。
ぶつけどころのないモヤモヤは残るのだけど。


打ち合わせとか会議とかで、自分が思ったことをどれだけ話せるか。
うまく伝えられるかどうかもあるけど、そもそも発言するかどうか。
発言すべき立場なのかどうかというのもあるけど、控えめにと発言しない理由探しを無意識に頭のなかでやって、自分は何も言わずにほかのひとがやりとりする成り行きを見守っているだけであれば、それはただ単に勇気のない逃げだよね。
発言するというのは、反論されたり反応なかったりとかという結果がついてくるから、失敗を嫌がったら話さないことに越したことはない。
だけど、失敗もなければ前進もない。
相手の反応を怖がって黙るよりは、逃げようとしている自分を自覚して、逃げない自分になろうとしたほうがいい。
何を言うかよりそういう姿勢をむしろまわりはみている。


わからないことがあって、知り合いにちょこっと相談した。
その知り合いはちょこっと調べてわかったことを説明してくれた。
そこまでは良かった。
が、そのちょこっと調べたことでそれが全てだという言い方になった。
いやいや、それが全てと理解していいのか、もっとほかにいろいろあるのかが知りたいのだ。
素人どうしが手が届く範囲で知ったことで議論しても素人の域を出ることはない。
最初から自分で調べればよかったのかとも思ったりしたけど、人を頼ったことが間違いだったとは思わない。
自分だけでできることは所詮自分の域を出ないしね。


例えば資料づくりとかで、相手がいろんなことを言ってきて修正しないといけないような雰囲気になった時に、そのまま受け入れてやり直しをするか、反論していまのままでいいのだと説得に向かうか。
反論してこそディスカッションになるし、そもそも何らかの意図をもって相手に提示しているわけで、相手の指摘をまるごとのむだけがやり方ではない。
だけど、手戻りが嫌なだけの反論はやめたほうがいい。
仮に説得して相手が了承したとしたとき、相手がきちんと納得していたらいいのだけど、説得に押されてただ折れたという場合だと、相手にくすぶり感が残っちゃうんだな。
それは、こちらが手戻りをなくせたという満足感を得る代わりに、相手のほうは丸め込まれたかもという不満感を得ることになって、結果的には信用されなくなる。
つまり、目先の勝利を得るために、もっと大きなものを取り逃すということ。
言い分を通して、押し切って勝つことが本当の勝ちではないのだ。


自分にはほかの人には見えないものが見えていると考える傲慢さ。
自信を持つのはいいのだけど、まあ、勝手にしろというだけだけだな。