カフェで一息、「考える」ということ、ラジオ英会話2013年05月11日 11時50分26秒

ある日の午後、提案書がなかなか進まず、集中力が切れてきて、考えているようで考えてないような状態になって「ダメだ~集中力がない」と言うと、同僚は、
「ちょっと外にでも行ってくればいいじゃないですか」
と言う。
そうだよなと、ちょっと出かけてくると言い残してぶらっと札幌駅のほうへ行き、パン屋さんのカフェでコーヒー頼んだ。
メモを持たずに出たので、ただボケーッと一杯のコーヒーを飲むだけ。
コーヒーがなくなったら手持ち無沙汰で、結局すぐに店を出て職場に戻った。
気晴らしになったという実感はあまりなく、またもとの提案書に戻った。
が、予想以上にその後の作業がはかどった。
リフレッシュした実感がないのにどうしてはかどったか、いまだによくわからないけど、同僚に感謝。


「考える」ということについて。
何か資料をつくるときに、これまでの知識とか関連する資料に書いてあることとかを組み合わせて、それっぽいものをつくろうとする。
それで、それなりの見栄えのものができたりもする。
出来がいいとそれを褒められたりもする。
ある程度仕事経験を積んでくると、それが仕事のやり方だと思ったりもする。
だけど、その過程で自分で何かを考えたか。
頭のなかにある情報、資料に書いてある情報を使って、それを並べて組み合わせるだけの仕事では、実際は自分の頭で考えるということをしていないことが多い。
頭は素通りしているという感じかな。
情報があっても、それをただ使おうとするのではなく、そこから何か言えることはないだろうかとひねり出そうとしたり、疑問が浮かんでその疑問がどうしてなんだろうかと自分で何らかの答えを絞り出そうとしたりするときに、頭を使って考えているという実感をもつ。
どうしてと思った時に、それの答えをまたネットとかで探そうとすると、これはまた頭を使わないただの作業になる。
「考える」というのはつまりはそうやって自分で何らかの答えを見つけようとするような、自分の頭で何かを生み出すときの、脳をフル回転しているような状態と思っている。
だから自分が「考えている」という状態にあるときは、そういう実感が湧くし、そういう時間は大事にしたい。
とてもしんどいんだけど。
逆に、作業はしているのだけど、頭を使っていないなという状態は、そういう時間ももちろんあるのだけど、それを「考えてる」とは自分では思わないようにしている。
ちなみに、作業はしているけど、頭を使って何かをひねり出すというのではなく、既にある資料や誰かが言ってることをまとめて資料のカタチにするような作業は、僕は編集作業という言い方で区別している。
もちろん編集作業でも頭は使うのだけど、考えぬいて何かを生み出すという頭の使い方ではない。
自分の頭をどれくらい使っているかということには自分では敏感になっておきたいと思っている。


また英語を始めた。
懲りもせずまたラジオの英会話を聴き始めた。
「年齢的にいまさらもう無理じゃない?」とかつて知人に言われたのが頭から離れないのだけど、やはり日常会話程度は話せたいという未練があるんだな。
ま、切迫する何かがあるわけじゃないから、気長に、気楽に続けようかなと思っている。