団地が取り壊されて街路樹もなくなった2007年11月14日 12時42分20秒

僕は札幌市のとなりまち江別市に住んでいます。
ここには道営住宅とか公務員の官舎とか、団地のような建物がたくさんあります。
おそらくほとんどは20~30年前、この地域が住宅地として整備され始めた頃に一斉に建てられたもので、どれも古く、中には入り口や窓が封鎖されて使われなくなっているものや、突然取り壊されるものもあります。

この夏、僕の通勤ルートに面している団地一棟がやはりいきなり取り壊されました。
そしてその敷地は住宅メーカーに買い取られ、これから一般住宅向けに分譲されるようです。

整地作業が続いているある日、横を通っている時にふと、敷地の端っこに残された街路樹に目がいきました。
街路樹と言っても、それはかつて団地の時に敷地内に植えられていたものです。
敷地内ですが道路に沿って植えられていたので、道路を通る人にとって見れば街路樹でした。
だいぶ立派に育っていました。
たぶん団地が建てられた時に一緒に植えられたものでしょう。

敷地全体が区割りされて住宅地として分譲されるとなれば、敷地内に植えられている高木は土地を売るには邪魔でしょう。
きれいな更地にしてから売り始めたいはず。

そんなことを考えながら次の日に通ったら、やっぱり本当にきれいさっぱり木はなくなっていました。
そりゃあそうだろうなと思いつつ、ちょっと残念な気分。

僕は木が切られる前日にその木に目が留まったから、木が切られたことにも気づいたけれど、もしかしたら多くの人はそこに並木があったことに気づかないかもしれません。
ちょうど、いきなり更地になった場所を見て、そこに何があったか、いつも見ていたはずなのに思い出せないというそんな感じ。
そして変わったあとの風景は、それはそれで時間が経てばまた目になじんでいきます。

こういうことがスポット的に繰り返されて、街の風景が少しずつ変わっていくんだろうなと思った出来事でした。

朝日記事「標津川蛇行化に難題」で考える2007年11月22日 17時37分29秒

11月20日の朝日新聞に「標津川蛇行化に難題」という記事があった。

記事では、北海道開発局が道東の標津川で、過去に直線化された川の一部を再び蛇行させようとしているが、直線化された今の川でもすでに多くの貴重な生物が生息していて、その扱いに頭を悩ませていると書かれている。

記事の中には、蛇行復元に対する鳥類研究家(29)の
「復元場所付近で営巣したタンチョウの巣は春の増水時に流される恐れがある。いまだに生物の保全策は示されておらず、何を自然の豊かさと考えているのか疑問に思う」
というコメントがある。

これに対して北海道開発局からの
「かつての自然と今とのバランスをうまくとりたい。工事の影響の把握に努め、専門家から指導、助言を得ながら対策を検討する」
というコメントもある。

論説ではないので、記者の見解にあたるような文章はない。
あくまでニュースなんだろう。

だけどやっぱり誘導の雰囲気があるよなぁ。
普通に読んだら
「やっぱり役所は環境のことをあまり考えずに公共事業を進めるんだな」
と受け取るような気がする。

役所:悪
環境保全を訴える人:善

という何となくできあがっている構図に乗っかって、さらに煽るような意図があるように僕には感じられる。
そうではなく、あくまで客観的な問題提起だと言われたら、それはそれで反論しようがない。
僕も大した根拠がなく、ただ「感じた」だけだから。


なかなか難しいと思う。
国は川を直線化して水路化させたとこれまで散々悪者呼ばわりされて、その川の蛇行を戻そうとしたらまた叩かれる。

僕はコンサルタントで河川の調査や計画に携わっている。
たまたま標津川の仕事は関わっていないのでこの記事の当事者ではないけど、いつ自分の仕事がこういう問題として持ち上がるかわからない。

実際、コンサルタントをやってると、計画なり事業がよく練られないまま決まっていくような場面にでくわすことはたまにある。
本来どうあるべきかとういう思想をもっと練ってから進めないといけないのに、短絡的な思いつきの対策で計画なり設計が進んでいる時もある。
いつもではないし、程度の問題もあるけれど。

だけど、標津川なんかは、考えるところはしっかりやっているのではないかなと思う。
生態系や河川工学の知見が問題解決のレベルまでは追いついていないから、公には少しもどかしい説明しかできなくなる。


わかる範囲ででも将来のことをしっかり考えて進めようとしていることには、前向きな指摘やアドバイスをしたほうがいい。
ちらっと見えた問題を表に引っ張り出して、事業全体がいかがなものかというトーンで責めるのはどうなのかなと思う。

まぁ責める人がいなくなったら、進める方も甘くなるかもしれないからやっぱり責める人がいないとだめなんでしょうけど。

こういう問題で「わかり合う」ということがあり得るのだろうか。
そもそもどうなったら「わかり合う」と言えるのだろうか。

朝日記事「富良野塾 閉塾へ」倉本聰さんの苦言2007年11月24日 06時09分51秒

11月21日の朝日新聞に倉本聰さんが富良野塾を2010年に閉じるという記事がありました。

なぜやめるか。
これからは飛び込んできたばかりの若者を育てるのではなく、塾を巣立った卒塾生をもう一度教えていく場をつくるのだそうです。

たまごをかえすのではなく、ヒナを育てる、成鳥を鍛えるということなのでしょう。

コメントの中に、年々応募してくる若者の質が低くなってきていて、受け身で教わろうという態度が目立っているとありました。
大学院レベルで講義をやりたいのに、現状ではついてこられる塾生が少ないのだそうです。

富良野塾くらいになれば、相当な志があって覚悟を決めたような若者が集まるのだろうと思っていたのですが、そうもならなくなってきているようです。
あるいは志はあっても、行動が伴わないのでしょうか。

知り合いの大学の先生と話をしていても、学生の学力低下が甚だしいとよく嘆かれます。
理系で工学部に進んできているのに、高校レベルの微分積分がおぼつかない。

僕も学生さんと話をすると、具体の知識レベルよりいわゆるやる気のところで物足りなさを感じるときがよくあります。

学生さんと就職の話をしたら、楽なところがいい、休みがとれて残業がないところじゃないとダメなんですということを平然と言います。
自分の時間がきっちりとれないとイヤだそうです。
ま、それはそれで大事なことだし、個人の価値観なので全くの否定はしませんが、その意識が先行するのはちょっともったいない気がします。

僕も同じく自分の時間は大事で、いまは時間を惜しまず仕事をしようとは思わないです。
ただ自分の時間のほうが大事なのでなく、仕事とプライベート両方大事で、それを両立させようとして葛藤しています。

僕が学生さんと話をしたときに感じた違和感は、両立でなくプライベートに重きがありすぎること、それと、それが自分からわき出た考えというより世間の風潮に流されて思いこんでいるような気がしたことです。

もっともらしいですからね。働き過ぎはよくないという話は。
テレビや新聞でのそんな言い方を聞いているうちに、それが自分の考えのようになっていくのでしょう。

仕事はほどほどにして、自分の時間が大事とするのもいいです。
だけどそう考えている間に、まわりの頑張る人にどんどん先を行かれてしまいますよ。
正論を主張している間に自分が取り残されているという状態が起こりえます。
10年後そうなっていたら、頑張ってきた人と同じ土俵に乗っかれず、まわりでぼやくだけの立場になってしまいます。

頑張ってばかりでは疲れるし、仕事だけの一辺倒もいいとは思っていませんが、志は高く、いろんなことにやる気をもって、あとは時間のやりくりで高めていくというのでどうでしょうか。

道路の「注意!」看板は無責任か2007年11月29日 21時42分38秒

24日付け朝日新聞の夕陽妄語で評論家の加藤周一氏は、道路の交差点でしばしば見かける「事故多し」「注意!」の看板について、その場所が危険なのであれば危なくないように改善すべきで、看板を立てるだけで平然としているのは途方もない時代錯誤で責任感がないという主旨の文を寄稿されている。

しかし果たしてそうだろうか。

加藤氏は病気を引き合いに出し、病気の原因を知りその原因を除いて病気を治すのと同じように、原因を抑えれば事故は減るに違いないと述べている。

確かにそうだ。
その交差点で事故が多い原因を調査し、それを軽減できる策を講じれば事故は減るだろう。

しかし道路の場合は道路を危なくないように改善するだけが
対策ではない。
見通しの悪さなど道路そのものの構造上の欠陥はできる限り改良すべきだが、運転手の注意が前方からそれる要因がほかにある場合や、歩行者に原因がある場合は道路を改良する前にその原因を取り除く必要があり、その策が看板の場合だってあるだろう。

道路は人工物である以上、管理者が安全を維持する役割を負うことになるが、どこまでの安全を保証できるかは実はコストとの兼ね合いとなる。

安全に金を惜しむべきではないと言いたくなるが、安全のためなら公共の予算をいくらでもつぎ込んでいいという議論にはならない。

注意喚起の看板について問題提起をするのであれば、看板を立てるという方法が安全策を綿密に検討して得られた結果なのかどうかを指摘すべきで、看板を立てるだけの対策があたかも短絡的で無責任な方法だと決めつけて言うのは、評論家として恣意的すぎるのではないだろうか。

役人がやることは片手落ちだという、自身の先入観と世間の風評に乗っかって論評されているように感じたが、ふとした思いつきの考えで他人を責めるのではなく、世の中を良くするための新しい視点、深い洞察力に基づいた独自のアイデアを評論家には求めたいところである。