技術士という資格の認知度が低いことは何か問題ある?2007年10月02日 17時58分39秒

技術士の一般の人への認知度が低いことが技術士の方々のご不満のようだ。
特におじさん方に不満を持っている人が多いような気がする。

と、書きつつ僕も技術士。
組織の内部批判になるのかなと思いながら、書く。

不満な人達は、一級建築士と比べたり、弁護士なんかとも比較したりする。
昔からたびたびそんな議論を聞く。

技術士という資格があまり知られていないのは確かだろう。
一般の人で、
技術士っていったい何?
そんな資格あるの?
と思う人は多いと思う。
一級建築士は知っていても技術士は知らない、聞いたことないという人は多いだろう。

技術士は技術者全般の資格で21部門もあるけど、
実際は建設部門の人がやたら多い、ちょっといびつな資格だ。
建設関連の業界では、役所から仕事を受注するときに、
技術士の資格を持っている人がいることが条件になったりするので、
必要資格として需要がある。
ほかの分野の技術者は、仕事やる上では特に必要とされていない場合が多いのでしょう。
(あまりよく知らないけど)

今年の春に北海道の技術士会の主催で、
技術士制度を考えるというフォーラムがあったので参加した。
技術士の認知度向上とか、社会的役割のようなことを議論するらしかったので、
皆さん一体どんなことを考えているのだろうかと興味もって行った。

でも非常にがっかりだった。

認知度が低いことが不満だというあるおじさん参加者は、
技術士と入った名刺を身内(孫?)に見せても何にも反応がない、と。
へぇ~すごい! という反応がほしいんだろう。
そのためは認知度が必要だと。

ある参加者は、
昔はもっと試験が難しかった。
いまは試験のレベルが低い。
低レベルの人が受かると技術士の格が下がる。
それは困る、と。
技術士のレベルダウン自体が問題なのではなく、
自分のもっている「技術士」自体の格が下がることが問題のようだ。

ある参加者は、
レベルを保つためには更新の試験が必要では、と。
でもこれからなる人が受けるのと同じ試験だと自分はもう受からない。
倫理のような項目だけなら大丈夫かな、と。
技術士のレベルが下がるのが問題と言いながら、
自分がすでに試験に受からないくらいレベルが下がっていることを明言している。
単なる開き直りだね。

そんなことをおじさん技術士達は言い合っていた。
記憶で書いているので、ひとつひとつが正確ではないかもしれないけれど。

少なくともそのフォーラムの意見だけでは、
参加者が(発言者が、か)認知度の低さを問題にする決定的な不都合は見えてこなかった。
なんとなく格好を求めているだけなんだなという印象。
まぁかっこ良さもモチベーションとしては大事だけどね、たとえおじさんでも。

認知度の議論をするのであれば、
かっこよく見てほしいために認知度がほしいというばかばかしい発想はやめて、
技術士としてやりたいこと、やるべきことがあって、
そのためには認知度がないとやりにくくて、
だから認知度を上げることが今必要なんです、という発想をしたい。

まだ続きがあるのだけど、長くなるのでまた次回。

河畔林伐採のトラブルから考えた地域と技術士の役割2007年10月03日 12時23分51秒

昨年、北海道のある川で河畔林の伐採が問題になった。
伐採が地域から反対されたのだ。

反対というのは主にラフティング業者からで、
水際の河畔林を切られるとお客さんが景色を楽しめなくなると。
業者としてはそれで客が減ることが心配なんだろう。

河畔林の伐採は治水のためだ。
水際に木が多いと増水時に水が流れにくくなり、
氾濫の危険性が高くなる。
だから木を切りたいというのが役所の主張だ。

伐採の計画を立てて、いざ実施という段階で現地にテープを張り巡らせたら、
これはいったい何事なんだとラフティング業者の目にとまり
猛烈な反対にあったというのがことの成り行きのようだ。

結局、伐採は中止となった。
いまは役所と地域とで話し合いが進められている。


ところで地域に理解される治水対策とはどんなものなんだろうか。

治水事業、つまり河川改修やダム事業はとにかく批判の的になりやすい。
反対する側の「自然を壊している」とか言う声は大きく響くけど、
それで得られる安全とか水不足がなくなっているとかいうところは、
あまり実感として理解されているようには僕には感じられない。
治水と環境のどちらが大事かという議論をしたいのではない。
いろんな観点をもって理解する必要がある問題だと思う。
そして地域の人達が地域の問題として理解できることはありえるのか。
役所任せにせずに。

僕はずっと川の仕事をやってきた。
大学卒業してすぐに受け持った仕事がダムの治水計画で、
しかもそのダム計画は住民の反対を受ける逆風の真っただ中だった。
右も左もわからないような状態で、見よう見まねでせっせとダムの妥当性を示す資料をつくった。
反対する住民を意識しながら議論に打ち勝つ理屈づけに知恵を絞る毎日だった。
どちら寄りという問題ではない。
当時は仕事のやり方を覚えることで精一杯。
だけど対立の構図を眺めながら、平行線の議論の渦中にいて、
自分の立つ位置がどこなのか、考えあぐねる毎日だった。
そんな経験からか特に川のことで住民とトラブルになっている話には自分の仕事でなくても敏感になった。

河畔林のトラブルが起こった川の話に戻そう。

役所は治水、つまり地域を水害から守るために木を切りたいと考える。
ラフティング業者はお客さんを楽しませるためには木を切ってほしくないと主張する。

業者にはお客さんのためという名目があり、それは自分たちの利益にもつながるという目論見(もくろみ)がある。
そしてラフティング業者が繁盛してお客さんがたくさん訪れるようになると、その地域がにぎやかになる。
それは地域の目玉になる。
つまり地域の観光が活性化する。

こんなことを考えているうちに、はたと気づいた。
どちらも地域のためになることなのだ。
治水も観光も。
業者がからんでいるのでその共通点が見えにくいけれども。

その時の新聞記事にコメントがあった。地域の町長だったと思うが、
「見守りたい」
と。

そうだ、これが違うのだ。
地域のリーダーが見守っている場合ではないのだ。

地域のための治水と地域のためになる観光資源との対立を、
傍観者のように様子を伺って眺めているだけではいけないのだ。

観光を推し進めていくほうを優先にするために治水の工事を据え置くとか、方法を変える要望を出すとか、
逆に、住民の安全が優先だから伐採すべきと明言するとか、
地域の問題として主体的に関わっていく立場なのではないか、地域のリーダーは。

でも実際には難しい。
河川を管理する役所と、地域の自治体との関係もある。
都道府県や国なんかの上の役所には気を遣って言いたいことがあっても言いにくいだろう。

もうひとつ、仮に自治体に判断をゆだねられても、
河川の専門的な内容を首長もしくは自治体の技術職員がすぐに理解するのはちょっと大変だ。
市町村では地域の仕事しかないから、大きい事業の計画書をいきなり見せられても、すぐに理解するのは難しいだろうし、
ましてやいいかどうかの判断はもっと難しい。

なのでいきなり地域の市町村に問題をあずけても実際には意見は出てこない。
出てきたとしても、
「洪水対策は大切なので、ぜひ進めてもらいたい」
というありきたりな意見を述べて終わりだろう。

ここまで考えたけど、じゃあどうしたらいいんだろうというところで行き詰まった。
打つ手なしなのか。

しばらく考え続けた。
そして2、3カ月後、ふと思いついた。
そうだ、技術士って人達がいるではないか。
そこで技術士が登場すればいいのだ。

また長くなった。続きは後日。

技術士が自治体の役に立てる時が来る2007年10月04日 12時44分38秒

そうなのだ、市町村の技術的なサポート役を技術士がやればいいのだ。

市町村にとってはお節介な話か?
そうかもしれない。
世話焼かれなくても自分たちで解決するからと、はねつけてもいい。

だけどこれからの時代、市町村に求められる役割や仕事はさらに増えるだろう。

例えば公共事業のプロポーザル。
いまはプロポーザル形式での発注は、国が先行して都道府県が追随するようになっただけで、
市町村でやっているところはごく一部だろう。
だけど、何かと批判の多い公共事業。
金額だけで決めるために談合の温床となりやすい入札制度から、
技術提案を発注の根拠にできるプロポーザル形式へと、
市町村の発注形態も移っていくと想像できる。

その時、受注側の会社は技術力、提案力が求められるのは当然だけど、
逆の役所側も各社から提出されたプロポーザルの技術内容を理解してランク付けできるだけの能力が求められることになる。
それまでマニュアルに乗っ取って定型的にこなせた仕事に慣れた技術職員は、
プロポーザル形式になれば、もしかしたら業者選定の前にまず条件を設定するところから戸惑うかもしれない。

そこで技術士が役に立てる。
前回書いたような、河川の治水か観光資源かというような公共事業全般の問題に直面したときにも、
すでに高度な技術力を持っているとされる技術士の知恵を借りられれば、
判断の目安、解決の糸口を見つけることくらいはできるかもしれない。

そのためにはまず技術士が役に立つということを示さなければダメだ。
技術士という集団は役に立つ人達だと市町村の職員の方達が思っていてくれないと
技術的アドバイスを求められるような場面は生まれない。
当たり前だ。
いまは認知度が低すぎて、困ったときにも技術士という存在が誰の頭にも浮かばない。

アピールを兼ねてセミナーを開く。
話し手はもちろん現役技術士。
自分たちが日常の業務で行った技術的な問題解決の具体事例を話す。
具体の問題解決を日々こなしていることを伝えるのだ。

そうして技術士の認知度を上げていく。
認知度が上がることで社会的な活動が広がる。

僕の思う、技術士の認知度向上の必要性はここ。
技術士の認知度が上がれば、こういう活動がスムーズになる。

こんなことをずっと考えている。
だいぶ自分の考えが整理できてきたので、
まずは北海道の技術士会に少しずつ投げかけていこうと思う。

青年技術士交流委員会に入っているので、メンバーに話をして、
議論でたたいて練り上げて行ければいいなと思う。
動きだそう。どう発展するか、発展しないかわからないけど。

打ち合わせは議論の場なのか決定の場なのか2007年10月05日 21時45分57秒

昨日、北海道の技術士会主催のワークショップに参加した。

テーマは「会議」。

いい会議とはどんなのか、実際にグループに分かれて、
いい会議をするためにはどうすればいいかということを
話し合う。
つまり会議について会議で議論するというものだった。

僕自身、いい会議、日常ではむしろ打ち合わせレベルだけど、
一体どうすればいい議論ができるんだろう?
ということを最近特に考えているところだったので、
非常に楽しく参加できたワークショップだった。

日常の業務の打ち合わせでは、
スパッと判断して物事が決まっていくのが美しいと思われがち。
だけど設計の打ち合わせなんかでは、
瞬間的な判断が必ずしもいいものづくりになるとは限らない。
経験による判断と言うともっともらしいが、
ぱっと見の思いつきの判断に過ぎない場合もよくある。
そんな瞬間芸の判断で世の中の構造物のカタチが決まってしまう。
もう少し議論して案を練り上げるという場がほしいと思うことがたまにある。

先日とある環境調査の仕事で、有識者にアドバイスをもらいに行ったとき、
説明をしながら、関連する質問、ちょっと関係なさそうな質問、
いろいろお喋りで投げかけるように打ち合わせが進んだ。

一見だらだらと時間が過ぎているように見えたけど、
その有識者の方も質問に答えながら
いろんなことを思い出したり整理したりしたようで、
最後には非常にいい調査デザインがその場でまとまった。
てきぱきと効率よくやろうとする打ち合わせではでてこない結論だった。

議論してアイデアを練り上げる場なのか、
報告して決定する場なのかをきっちり分けて打ち合わせを設定しないと
その打ち合わせはうまくいかない。

その環境調査の打ち合わせは、
事前にどちらなのかを決めていたわけではなかった。
ただ時間に余裕がありいろんな質問を気軽にできる関係だったので、
結果としてそのような「議論」の打ち合わせになった。

だけどその打ち合わせを「議論の場」と決めたとしても、
必ずしもいい議論ができるとは限らない。

メンバーのレベルに差がありすぎるともちろんダメ。
すぐに否定的な考えを出す雰囲気になってもダメ。
疲れていてもダメだろう。
1日仕事をしたあとの夕方に打ち合わせしても、
もう議論を積極的にする気力が残っていない。
風邪引いていたり、健康状態が悪くても、
いい発想は浮かばない。

いい議論ができる最低限のポイントというのがあるはず。

自分なりに考えてきたことがあるので、
また次回に書きます。

いい打ち合わせの条件は?2007年10月07日 22時19分15秒

いい打ち合わせの条件がひとつある。
それは予習を徹底させることだ。

実際は難しいことはわかっている。
打ち合わせ資料は、相手には当日、その時に配られるだけだから。
事前に渡しておこうと言っても、
その業務の担当者はいろんな仕事を抱えながら資料をつくるので、
時間がなくてぎりぎりまで資料づくりに追われるのがほとんどだ。

悪い打ち合わせとはどんなのかと聞かれたと想定したら、
どんな場面が想像できますか?

・担当者の説明が悪い
・堂々巡りの議論をする
・決めるべき人が決断しない
・報告ごとが多くて議論にならない
・意見が出ない

などなどいろんな場面が出てきそうだ。
だけど、僕が思うもっとも悪い打ち合わせが、これ。

・瞬間の思いつきの判断で重要なことが決まってしまう

資料をつくる人は、作業しながらいろんなことに気づき、目がとまり、
それらを取り込むか捨てるかに迷い、
思考をフル回転させて提案内容を考えて、
最終的に資料をまとめる。
作業の過程でとにかく考える。

その考えたことを打ち合わせで議論する場合、
結果として喋る側と聞く側に、
それについて考えてきた時間の蓄積量に差が出てしまうことになる。
説明者が膨大な時間を費やして考えてきた提案内容を、
聞く側はその時だけの瞬間的な説明で理解し判断しなければいけない。
と言うか、そうしなければいけないと思いこんでいる場合が多いと思う。

そうすると、判断する側は深く考えて理解して判断する余裕はなく、
瞬間的にぱっぱと判断を下す。
つまりスピードが求められるのだ。
しかしスピードを求めすぎると、
時間をかけた深い議論はできない。
時間をかけてやりとりしているうちに出てきたはずの
さらにいいアイデアが浮かび上がる機会を逃す。

しかもスピードが求められる場面では、
頭の回転のいい人だけがついて行けるので、
結果としてそんな人だけが発言でき、
ついて行けないひとは黙って聞いてるしかない。
発言者が限られていく原因になる。

ちょっと立場が上の人達と打ち合わせするときは
こんな状況になりがちではないだろうか。
忙しい人は時間がないから
てきぱきとやろうっていう雰囲気になりやすいし。

打ち合わせは物事を決める場だ。
だからこそ瞬間の思いつきの判断で物事を決めるべきではない。
時間を使って深く考えた人と、
ほとんど考えていない人が最初から同じ土俵にのるべきでない。

とすると、どうしたらいいのか。
瞬間の思いつきにならないようにすることに知恵を絞るべきで、
判断する人が「瞬間の判断」にならないように、
その前から考えておいてもらうようにし向けるのがいい。
予習してもらうのだ。

となると、予習してもらうことに知恵を絞らないといけないことになる。
事前に資料を渡しておくだけではダメだろう。
忙しい人はほとんど読まない。
これには答えはない。
その場その場で考えないといけない。それも仕事だ。

人によってはメールでもいいし、
fax送って届いた頃に電話して簡単に説明するというのでもいいだろう。
メールでも、添付ファイルではあまり読まないから本文に書こうかとか、
それでも読まないから、メール送って電話するかとか、
臨機応変にやらなければならない。
ここで仕事ができるかどうかが分かれる。

いい議論ができるための原則というのはいろいろあるだろう。
それこそちまたにあふれているビジネス書を読めばたくさん書いてある。
だけど、聞く側も予習できる環境をつくって、
皆が一度じっくり考えてから議論にはいる。
これがいい議論を伴ったいい打ち合わせをする、
非常に重要なことではないか、そう思うようになった。

実際にはなかなかうまくはいかない。
だけど少しずつトライしていこうと思う。