最近読んだ本から:思考停止社会 郷原信郎2009年08月11日 06時22分20秒

思考停止社会「遵守」に蝕まれる日本 郷原信郎 講談社現代新書

例えば、会社で些細な不満があってその不満を上司に訴えたとして、それが社長に伝わって「これじゃいかん!」って社内制度の大改革につながったとする。
でもその社内大改革がほかの大多数の人たちにはすこぶる不評で「誰かが変な不満を言ったせいでこんなことになったらしいぞ」ってあやしい雰囲気になっていったら、最初に不満を訴えた人はどんな心境になるだろうか。
ここまで大ごとになるんだったら言わなきゃ良かったって後悔するかもしれない。

打ち合わせの場面。
まわりがほとんど年上で、自分がその中に入ればまだ未熟だなって思うような時、下っ端は発言するには勇気がいる。
注目されたくないし、自分の考えを言ったときにそれがまともに議論されて、最後にはそれが方針に決定されたりしたら、自分なんかの考えで決まってしまっていいんだろうかって思ったりもする。

小学生の学級会なんかも同じかもしれない。
だいたい積極的に発言する子は決まっていて、発言しない子は自分が何か言うことで注目されて自分の意見がまわりに批判されたり、逆にクラスの方針にとりあげられたりということを無意識に避けるからだろう。
緊張するからという単純な理由もあるけど。

ちょっと変な例えだったけれど、自分の発言のコントロールって、みんな無意識にやってることだと思う。

本書の趣旨は、社会問題になった食品偽装、マンションの耐震偽装、年金記録の改ざん問題などで、マスコミがつくった善悪の判断が一般の人にとっての基準になって、問題の本質を掘り下げていくということにつながらないという指摘だ。

その中で、裁判員制度のことも取り上げられていて、裁判員制度のひとつの大きな問題として、殺人などの凶悪犯罪を起こして死刑か無期懲役かという人に対する判断について、一般市民がその重大な責任を背負えるのかと疑問を投げかけている。

裁判官はその判断を職業にしているから、死刑か無期懲役かという究極の判断も専門家の役割として担うよう教育と訓練を受けていて、その過程の中で覚悟が備わってくるだろう。
職業人というのは、つまりは判断の責任をもつということだ。
そのために大学の時だけでなく、職業に就いてからも専門分野の勉強を続けるし、個々の案件についてはそれについての膨大な資料を読んでそれぞれの事情・特徴を理解する。
職業人と一般市民とはそもそも事案に向き合うスタンスが全く違うのだ。

市民感覚という言葉があって、専門家だけで通用する偏った考え方に釘を刺すような意味で使われる。
大事だと思う。
大多数の一般市民がどう感じるかというのは、判断基準として重要な視点だ。
専門家だけでつくられる社会の流れは時として大きな失敗をもたらす。
昨年のリーマンショックなんかもその典型例だと思う。
金融工学という分野の人たちがもたらした世界規模での大失敗だ。

ただ、市民感覚を大事にというのと、市民参加というのを混同してはいけないと僕は思う。
自分の発言で、他人の人生とか組織とか、もっと大きな世の中を変えてしまうことだってある。
その覚悟があるかどうか。

ちょっとした使命感だけで何か言ったとしても、それで人が動き、金が動くこともある。
それに見合う分だけ世の中が良くなればいいけれど、ただ単なる思いつきや偏った見方ならば、それで動かざるを得なくなる人に対して迷惑だ。
人によっては、影響の大きさに気づいた瞬間に何も言えなくなってしまうということもあるだろう。
そうすると、相手に訴えるということができなくなり、仲間内で愚痴るという姿に戻るかもしれない。

本では裁判員制度のことで触れられた職業人と一般市民の覚悟の違いであったが、どの分野でも言えることだなと思った。

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